痛みを治療するなら痛みのわかる医者であれ

残念なこと

もっとも当たり前のことを言わなければならないことを残念に思うが、患者の痛みを治療できる医者になりたいのなら、患者の痛みがわかる医者でなければならない。しかし、患者の痛み、人としての痛みがわかるようになるには医者が君主や官僚であっては無理である。上から目線で人を見下す傾向にある医者という職業にあっては人の痛みはなかなかわからない。よってほとんどの医者には人の痛みを真に治療することはできないというまことに残念な現状がある。世界の医療を覗き見ても、開発途上国の医師ほどお金に汚く、人の痛みを商売にし、痛みを理解しているとは思えないふしがある。残念なことである。

人の痛みとは生きることの痛み

この世に生を得た者が生存し続け、子孫を残すことは決してたやすいことではない。生きることは動物としての生存競争であり、人もまた人との生存競争の上で生きている。競争で勝つための努力は想像を絶する厳しいものであるし、競争で負けて従わせられる苦痛もまた想像を絶する。勝つために卑劣な手段を使ったり人を殺害したりする者もいる。戦争もなくならない。騙しは日常茶飯事であり、法を破ることをものともしない者もいる。戦国の時代も平和な時代も生きる者はみな苦痛を背負う。そして苦痛は他人から受けるだけではなく、自分の肉体からも苦痛を受ける。そういった弱者、強者、悪党、善人すべての生きとし生ける者の痛みがわからなければ、人の痛みはわからない。
時に人は自分の生活を脅かす者に多大な嫌悪と憎悪を抱く。やくざ、ちんぴら、詐欺師などなど、忌まわしき無法者の存在を毛嫌いする。嫌うのは自由であるが無法者とて自分の生存をかけて戦っていることに何の変わりもない。相手の立場に立つことでしか人の痛みはわからないが、例えば極端な話をすると、悪党と呼ばれる者たちの立場に立ってその人の人生を考えてあげることができるだろうか?そこまでできれば親鸞聖人の心境にまでたどり着けるかもしれない。宗教的かもしれないがその境地にたどりついてこそ人の痛みがわかるようになる。私自身、まだまだそこまではたどり着けていないが、理解しようと意識を向けていることは確かである。

憎悪と恨みで医者を攻撃する患者との対峙

痛みを背負った患者は常識的性格から逸脱してくる。痛みのせいで性格・人格が恐ろしくゆがむ。人の良さそうな者が悪魔に変わる。「殺すぞ」と面と向かって暴言を吐く患者、あらゆる手段で悪評を立てて復讐しようとする患者など珍しくもない。そうした忌むべき患者を理解する必要がどこにあるのだろうか?関わらない方がいいと思うだろう。だが極端な話、凶悪殺人犯の犯した罪でさえ理解できなければ真にまともな治療はできない。なぜか?人は自分の思考の枠外にある人たちに恐怖を抱く習性がある。常識外れた人が何をしでかすのかわからないからだ。わからないものには畏怖の念を抱く。畏怖の念を抱いたままで全身全霊をかけた医療を施せるだろうか?ミスをしたらどうする?痛がらせたらどうする? 凶暴で理解不能な患者を「常識外れ」と捨て置けば、その患者を勇気を持って治療できない。注射器を持つ手が震えてしまうだろう。
百歩譲ってそういう患者に強がってみせて治療する。これは逆効果になる。なぜならば彼らは強がって見せる者に従うことはしない。逆にこちらの心の弱みがばれてしまい、その隙を突いてくるだろう。彼らは自分よりも弱いと感じた人間には容赦なく脅す冷酷さを持っている。 そうではなく理解することだ。理解すれば怖くないし相手の痛みもわかる。そして100%相手のためになる治療を!と考えれば、迷うことなく治療について説明ができ、踏み込んだ治療についても同意を得られる。 患者に誠意を尽くそうとすれば、相手の患者がどんな脅しを言ってきても、ひるんでいる暇などない。医者としてベストな道を相手に示す以外にないから迷いも震えも止まる。ただし、緊張はする。失敗は許されないからだ。

非常に失礼な患者に手厚い治療をする

非常に好戦的な患者が目の前にやってきたらどうする? 好戦的であるのはほとんどの場合30代の働く女性である。男性はある程度医者に敬意を示すので最初から馬鹿にすることは少ない。だが女性は違う場合が多い。最初から「医者に馬鹿にされまい」として突っ張っているケースが多い。とても失礼なタイプである。どう見ても「治してもらおう」という態度ではない。彼女たちがなぜこうも医者に対して不信感を抱き、好戦的でいやみな態度をとるのか?理解できるだろうか? もちろん理解しなくてもよいが、理解しないまま全力で相手を治療することは難しいだろう。普通なら嫌味を言って医者を苛立たせる患者に治療意欲などわくはずがない。相手はそういうことも認識できない世界を生きてきた未熟者である。だがそうした患者の人生も理解していると治療に迷いが生じなくなる。
迷いとは何か? それは下手に治療をすると文句を言われる、会話をどうやったら手短に終わらせることができるか? どういう風にいいくるめればそのままおとなしく帰ってもらえるか?などと治療以外であれこれと悩むことを迷いという。彼女たちのような人格障害を持つ患者は二三話せばすぐにわかる。いやみなので人の話にすぐひっかかってくる。眉間にしわを寄せ、不快感をすぐに顔に表す。
当然ながら彼女たちはどこへ行っても積極的な治療を拒否されてきている。よって医者を何軒もはしご(ドクターショッピング)することになる。そしてどこに行っても同様に医者に嫌われてブラックリストに載る。だからすでにかなりの医者不信に陥っている。彼女たちを適当にあしらおうとすればそれはすぐに察知され、逆に最大限診察時間を引き延ばされてしまう。彼女たちは医者がもっともいやがることを心得ている。だから簡単にあしらおうとするほどトラブルが拡大する。そして30分も診察室に居座って話をした挙句「あなた、さっきから私の体に一つも触ってもいないですよね。体に触らないで何がわかるんですか?あなたそれでも医者ですか?」とおきまりの定型句を言ってくる。
さあ、問題はこのような患者に医者がどう接するかである。彼女は診察室に入る前から医者に対して戦闘態勢に入っていることもある。待ち時間が長いことがその原因だが、必死に働いている医者には患者を待たせていることさえわからない場合もある。一体彼女たちは病院に何を求めてやってきているのか?痛みを治療してほしいのか?実はそうではない場合もある。

患者が医者に求めているものを知る

こういう患者の社会背景を考えてみる。病気の苦痛はあるとしても、この性格では周囲に敵を作る。だから彼女は実社会でも敵を作り、いじめに逢っていることが予想される。普通の会社員が5分遅刻してもそれほど叱られないが、この患者が5分遅れれば激しく責められる。よって日常では少しも非の打ちどころもないように必死にならざるを得ない。そうした緊張や不安で不眠になり、やがて精神疾患も発症する。常に他人と闘っているからだ。すると仕事に不備がではじめ、周囲からのいじめはますますひどくなる。ついには会社をリストラされる寸前のところまで行きつく。
この手の患者が欲しがっているものは治療ではない。もちろん完治するなら治療を望むが、すでに患者は医師不信になり治療が成功しないことを感じている。だから自分を正当化できる病名や診断。そして病気を治せないでいる責任を医師にとってほしいのだ。責任と面倒だけ見てくれる医師はいないので、患者は医師との診察で亀裂を作る。
ちなみに彼女のような患者に以前、積極的な治療を勧めたことがある。「私はその症状を治せますよ」と宣言したのだが、さんざん私をののしった上で大学病院に紹介状を書いてほしいと言ってきた。「治せます」と言ったことが気に入らなかったようだ。そこで私は初めて気づいた。彼女が欲しがっているのは治療ではなく、名誉ある人がつけた診断名が欲しいだけだと。大きな病院での診断書でなければ会社の上司を説得できる材料にならない。ましてや普通の医師には難病の診断名を書けない。だから私が書く診断書ではダメなのだ。
彼女が欲しいのはそうした疾病利得であり、逃げ場であり、本当に治療してもらうことではない。もちろん完治を望むが「医者には私の症状を治せない」と思っている。だから治せる医師が目の前にいたとしても、治療を拒否し、そして自分の世界にこもることになる。患者のニーズは「治すこと」ではなく「疾病利得」だった。それを読めなかった自分がまだ青い!と感じた。

患者の10年後

例えば上記の彼女の10年後を想像する。医師に治してもらえない痛み、理解してもらえない症状。そして会社を体調不良でしばしば休むようになると解雇されるようになる。医師には「心因性」と判断されて心療内科に通院するようになり生活保護を受けるようになる。
生活保護を受けていることにより彼女の子供が学校でいじめに逢いやすいことを知っているだろうか。また、親は子に自分の勇姿を見せ励まして教育することができないので教育がうまく行かず、子供にも心療内科的な症状が伝染する。そして登校拒否に…。それらは必須ではないが確率が高い。私は上記のような女性を診察している時にすでに10年後を予想してしまう。そこまで他人の人生を覗いてしまうのは余計なお世話かもしれないが、10年後に待ち構える悲惨な家族崩壊をも想像し、この手の女性に同情してしまう。だから今日診察室で逢った無礼な女性患者に対しても100%真剣に治療しようという意思が芽生える。嫌味を言われてもへこたれない。今日何とかしないと将来が悲惨になる。
最近は自分自身の医療技術が向上したおかげで、こうした女性を治療しながら通勤を支えるということができるようになってきた。しかしそれでも良心は痛む。ここまで念入りに治療してまで通勤させることが、本当に彼女の幸せにつながっているのだろうか?という迷いである。通勤で稼いだ金額の半分は医療費に消える。治療を放棄して生活保護に向かわせる方が症状は軽くなるかもしれない…。

未来を考えた治療を施す

最近では90歳を超えた患者が普通に来院する。まさに超高齢化社会だ。普通にとは言っても60代の娘につきそってもらって来院する。「お変わりありませんか?」と訊ねると「変わりありません。毎日散歩しています。」と元気に返事が返ってくる。「ではお大事に」とそのまま返してしまうのか?ちょっと待て!
若い世代には理解できないかもしれないが、高齢者が寝たきりの超高齢者を介護しながら毎日過ごす地獄を想像したことがあるだろうか?90歳の元気そうなおばあさんだが、5年後には寝たきりになるかもしれない。もしも彼女が100歳まで生きながらえたとすると、その後の5年間も寝たきりの超高齢者を高齢者が世話をすることになる。そんな予想は外れる可能性の方が低い。
私はしつこく話を訊きだす。すると彼女は連続で30メートルしか歩けないことを知る。さっきは「毎日散歩している」と言っておきながら、実は休み休みの散歩であり、しかもその距離は日に日に短縮している。まさに寝たきりになる一歩手前であった。そこで私はこの90歳を超えた女性に腰への硬膜外ブロックを受けることを勧めた。30メートしか歩けないのを60メートルにできますよと説明した。だが結果はNO。断わられた。
私に何とかしてこの親子を5年後に起こる地獄から救ってやろうと思った。だが、5年後に起こる寝たきりを、この親子は理解してくれなかった。想像してくれなかった。起こるはずがないと思っているようだった。ならば私はこの親子にとって、いらない治療を押し付ける押し売り医者と映ったことだろう。おそらく、90歳の女性に将来を見越して予防的に硬膜外ブロックを勧める医者など世界を探してもそうそういないだろう。だが、未来の地獄を想像すれば、私は行動を起こさずにはいられない。たとえ押し売りと勘違いされていたとしても…

いろんな人生があり様々な苦痛がある

後1年で退職。だが今のうちに「働く勇姿」を会社側に示し、退職後も仕事をもらえるようにしておきたい。退職間近の高齢者がこういう考えを持って、自分の体を犠牲にしてまで通院しながら激しく仕事をしているのを知っているだろうか? いくら治療してもすぐに腰をいためてやってくる。こっちはいい加減仕事をやめてほしいと思っているのに…。体が故障してもいいから全力で次の大会で勝利をおさめたい。だからどうにかして痛みを止めてほしい。そんな考えで部活をやっている少年もいる。
ここで考えなければならないこと…それは治すだけが医者の仕事ではないということ。痛みを抑えてスポーツや仕事を続けることによって、さらに現状よりも悪化することが予想される場合でも、その患者の人生にエールを送ってやらなければならない場合もある。その場合、週に1度のブロックではこと足りず、週に2回行うことだってある。そうやって患者の人生をサポートするのも医者の役割である。結果、悪化することが予想されてもである。その後のフォローも考えつつ、好きにさせてやるのも医者の器量である。
人の痛みがわかるようになれば、今施さなければならないことが見えてくる。そこに常識や医療の治療指針を押しつけても患者にとっては迷惑だ。人の人生をサポートできる医者になるためには人の痛みや苦しみ、そして一生を通した人生を見てあげなければならない。だからこそ、今日この診察室で治療をする理由と意欲がわき起こる。相手の人生に関わらない医者に患者の苦痛が取り除けるはずがないのである。
私は一般的なペインクリニックの医者よりもさらに痛みを取り除く技術がある。しかしそれは技術によるところよりも、人の痛みを理解しようとしているところによると思っている。技術力ではなく精神力で患者を治しているからこそ痛みを治せるのだと思っている。人の痛みがわからない医者に人の痛みを取り除けるはずもない。それはどんなに技術を磨いたところで関係ない。より多くの患者の人生に関わろうとした医者だけが手に出来る治療技術であると思う。

人の痛みがわからない医師に真の医療はできない

日本は特に東大官僚制が根を張り、大学の教授の多くは東大出身である。彼らがピラミッドの底辺を構成する低所得階級の人々の生きる痛みや苦しみを理解しているとは到底思えない。彼らは、自分の研究に役立つ特殊な患者、地位や名誉のある患者、自分の言うことを素直に聞く患者、自分を尊敬しすがってくる患者、有名人に対し診療をして自尊心を満たす。そして自分の得意分野の疾病しか診察しない。
スペシャリストだからそれでいいと思うのは間違いである。専門的な疾患だけを診ていたのでは他の内臓や精神と連動して不都合を起こしている総合的な疾患が見えず、結局治療が失敗に終わることなどいくらでもある。大学の教授はそういう総合的なからみのある患者を最初から除外する傾向が高い。よって専門を名乗る医者ほど診察能力が低くなるということが実際に起こる。
低所得者層の患者は自分の健康を気遣わないため、不摂生をし、いろんな病気を複合的に持っている。そういう患者を進んで診ないから教授陣は低所得者層の患者を救えない。何度も言うが低所得者の方が高所得者よりも人口が多い。彼らはピラミッドの頂点にいる患者や自分の研究に役立つ患者しか診ないから専門バカとなる。何よりもそういう低所得者層の人たちの人生がわからないから彼らの痛みもわかりにくい。
もう一度いう。人の痛みを理解できない者に人の痛みを治療できるはずなどない。医者はエリート階級であることに変わりない。そして高い給与の財源が公的資金から大部分が支払われることを考えると高級官僚である。その高級官僚の頂点である教授陣に庶民の人生をわかれというのは難しい。だからこのHPに数々掲載してある日常の難病はどれも彼らには治せない。自分の名が上がる特異で稀な疾患には目を輝かせて診察する。新しい手術方法を試すことができる患者の面倒は最後まで診る。そういう彼らに国は救えない。本当に国を救うには彼らが接触を嫌がる低所得者層のききわけの悪い患者層を救わなければならないのである。ただし、もしかして教授の中にも侍がいるかもしれない。いるのなら逢って話がしてみたい。名誉欲にとらわれずに自由に力強く己を磨くことに精を出し研究し、人の痛みがわかる侍。少しでもいるのなら日本は救われる。

良医になるのなら大学を早く離れた方がいい

大学と言うところは縦社会、官僚社会であるから、医者として自分の腕を磨くには適さないかもしれない。大学は患者の痛みを知るよりも何よりも教授のご機嫌をうかがうことに多大な神経と時間を割かねばならない。だから大学に長くいると人間の痛みがわからない医者になってしまいやすい。外に出ると医療過誤の責任が全て自分にかかるようになるので患者の容態をしっかりフォローしようとする習慣がつく。すると患者の心とリンクできるようになる=痛みが分かるようになる。
医者は庶民を救ってこそ本分である。自分の利益になる特別な患者しか診ない医者を目指してほしくない。大学を早く離れ、地域の病院に根をはり庶民の生活にはいりこむことを勧める。そうでなければ彼らの人生を理解できようか?人生が理解できない医者にどうして病気を治せるというのか?私は医者をやっていて気付いたことは、庶民の病気には必ず疾病利得が多少なりともからんでいるということ(疾病利得は別の項目として記す)。疾病利得には彼らの人生がかかっている。そこはどろどろとした人間のエゴや汚さがうずまくぬかるみ地帯である。
我々医者はそれをできるだけ見ないように、疾患だけを診るように努める傾向がある。逆に、だからこそ彼らを治せないのだと思う。多種多様にある疾患は決して教科書通りではない。そこには醜い利害関係も強くからんでいる。それらを全て理解したうえで、その人生の根底を変えなければ治らない病が数々ある。そこが理解できれば他の医者が治せない疾患を治せるようになる可能性がある。
そこに入り込めた医者は有意義な人生を送ることができる。人間の汚い部分を知ることでこそ美しく生きていける。何より万人に全力を尽くせる医療ができるようになる。治療の迷いも消えるだろう。患者のためではない。自分のために、人の痛みがわかる医者になる方が賢明であると感じる。その後開業し庶民の人生を幸せにすることに専念してほしい。そのためなら私はあなた方の開業を支援する。開業しても患者にあふれるようになり経営を安定させるための医療技術をみにつけられるようにアドバイスしていくつもりである。

痛みを治療するなら痛みのわかる医者であれ」への2件のフィードバック

  1. 僕は23歳の薬学部生です。あなたのおっしゃっていることにありがたみを感謝を感じます。
    腰を大学一年生で折って以来、常に毎日腰が痛いです。しかし、レントゲンを撮っても異常がないと終わり、ただ痛み止めを出されて終わりです。
    周りにも見た目が普通のため、理解されません。苦しいです。勉強もはかどりません。誰に頼ればいいのかすら分かりません。同じ医療者が理解しようとしてくれないならば、どこに行き場を生き場を求めればいいかわかりません。
    診断名が出ないことで、周りにはさらにサボってると思われます。常に痛くて鬱になりそうで、勉強に手がつきません。
    同じような患者さんを救いたいのに、
    肝心の自分自身を救えてないです。
    ほんとに苦しいです。

    • 自分自身を救うためには自分自身の状態の真実をしっかり見つめなければなりません。真実はこの世界では常に隠されているものであり、厳しい千里眼でしっかり見ようとしない限り見えないものです。

      エベレストに登るのか、小さな山に登るのか、を見極めて山に登らなければ遭難して死んでしまいます。自分の肉体はエベレストなのか小さな山なのか? どちらなのか? の真実を見極めなければなりません。西洋医学は権力と経済と商業が何重にも重なっていて、誇大広告がなされているため、西洋医学にかかればすべて治るという幻想を多くの国民が抱きます。だから西洋医学ではエベレストを目の前にして「小さな山だから軽装備で登れます」と断言します。あなたが「何度挑戦しても登れない」と申告したところで「西洋医学では小さな山にしか見えません」と言われます。そこで西洋医学を信じるか? 真実をみようとするか? の選択肢が生まれてきます。真実を見れば軽装で登山するべきではなく、重装備を整えなければなりません。重装備を整えるには数千万円のお金が必要かもしれませんが、真実はそこにあるわけです。

       だれもが軽装備でエベレストに登りたいと思うでしょう。その邪心・誘惑が真実を見えないようにしてしまうのが人間の弱さです。ですがエベレストに登るなら強い精神が必要になります。あなたの腰はエベレストなのか小さな山なのか? どちらなのかを真実の目で見つめなければ、その地獄から脱することは難しいです。人間の一生は短く、地獄から脱するために十年かけるわけにはいきません。できるだけ早く脱するためには、治療の選択肢が限られていることを、どれだけ早期に気づくことができるか? それで人生のよしあしが決まってきます。がんばって真実をみつめてください。

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      医療秘書のAと申します。あなたさまの痛みをとる方法をご案内できるかもしれません。ご連絡先にご案内させていただきます。ご確認いただければ幸いです。

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