学者が抱く臨床家への不信感

基礎医学と臨床医学の違い

医学研究は大きく分けて基礎と臨床に分かれる。が、いつの世も基礎医学と臨床医学が協力し合って医学が発展することはまずない。その理由は基礎医学者は臨床医学者をある意味軽蔑しているからである。基礎医学は数学的であり理論的であり常に真実を求める。それに対して臨床医学は条件を変えたデータ分析であり、条件を変えると結果がころころ変わり真実からかけ離れる。例えば「脳の重量は男性の方が重い」という一見常識的な定義も、条件が詳細に設定されなければこの結果は変わる。日本人の男性の脳と欧米人の女性の脳と比較すれば、欧米の女性の脳の重量が重くなったり、調べる集団に年齢の偏りがあった場合定義が崩れる。このように臨床医学は条件次第で結果が変わるため「真実でないこと」が「真実の仮面をかぶって世間に広まる」ということがしばしば起こる。
真実を追求する基礎医学者にとって、真実でないものを流布する臨床家たちは「信用できない」と軽蔑するのはこのためである。臨床データは細かく条件を付ければつけるほど結果が変わるという「非数学的な理論」となってしまうが、そこに統計学というあたかも数学的であると思わせる解析データーを付け加えて「証拠」があるように見せかけることで理論的に仕立て上げている。よって基礎医学者たちは臨床家の定義を全くといって耳を貸さないものである。

因果関係

基礎医学では因果関係が常にはっきりしている。Aのスイッチを押せばBとなるというほぼ100%に近い因果関係を導き出すのが彼らの研究結果である。よって彼らの学問は特殊だ。そうした100%因果関係を導き出すためには、ミクロの世界を探求する必然が生まれる。たとえば複雑な化合物を元素まで分解することにより完全な因果関係を求めることができるようになる。水が水素と酸素からできるという因果関係はほぼ100%正しいし真実である。これが基礎医学である。
しかし「グルコサミンをのむと膝の軟骨が再生される」という因果関係は、いまだ世界で誰一人証明できた者はいない。軟骨が再生されるためには現医学では解明されていないような多くのシステムが絡み合っているだろう。そのシステムの一つ一つの因果関係を調べるなどできるはずもない。よってグルコサミンが膝に有効か、無効かを調べるにはグルコサミンと軟骨再生の因果関係を無視して、グルコサミンと膝痛の関係を調べるという非科学的な方向に持っていかざるを得ない。
さらに、グルコサミンが膝痛に有効であると仮定したとしても、重症度、性別、年齢、体重、一日の歩数、仕事内容、遺伝的背景、骨格、筋肉など、多くの条件が無視されている。これらの条件を細部にわたって設定していないデータは科学的証拠としての価値を持たない。しかしながら「いつのまにか有効」という情報となって世間に広まる。臨床家の研究結果発表はこれほどいい加減なものであるからして、基礎医学者たちは臨床家の論文には耳も貸さない。いい加減であるにもかかわらず、統計処理をして「科学的に証明されたデータ」と大きな声でふれまわるから始末に負えない。だが、臨床医のほうが権力が強いので彼らはあまりつつかないように気をきかせている。基礎医学者は臨床家をバカにしているが力が強い者を抗議しないのである。

臨床家はお金と利権、学者は真実

臨床実験の結果を公表する際、彼らはしきりに大声で「科学的に証明されたデータ」であることを常に誇張する。「エビデンス」という言葉が彼らが薬効を証明して見せた解説文に何度も登場する。一方、学者たちの証明した定義には「エビデンス」などという言葉は一つも出てこない。これは不思議である。科学的な論文には「エビデンス」という言葉はないが、非科学的な論文には「エビデンス」という単語が何度も出る。すなわち「確実に証明などできない論文」にこそエビデンスというワードが用いられる。
それは臨床家のデータはお金と利権に直結しているからである。「この薬が肺がんに特効である」という論文を出せば、その薬が生み出す利権は計り知れない。当然ながら利権が絡むと真実はねじ曲げられる。臨床家の論文データは、そのほとんど全てが利権に直結するため、常に真実はねじ曲げられる運命にある。最近はデータ改ざん事件が後を絶たない。
基礎医学者はそうした利権がらみの真実のねじ曲げをもっとも軽蔑している。よって基礎医学者は臨床家を嫌うのである。しかしながら臨床医学の教授たちは、基礎医学の教授をライバル視さえしていない。臨床医学の教授の権力は基礎医学の教授よりもはるかに大きく、ライバルにさえならない。よって基礎の教授が臨床の教授を軽蔑していようが、臨床医学の教授にはカニのあぶく(つぶやき)にもなっていないのである。

権力がエビデンスになる仕組み

「この治療法がこの病気に効果的」と権力者が論文発表すると、その後権力者の弟子たちが証拠をでっちあげる研究を必死になって行うことは世界の通例である。なぜならば弟子たちに博士という称号(博士号)をつけるのは権力者の一存で決まるからだ。権力者(教授)は自分の発表論文の証拠をでっちあげる研究をした弟子たちに博士号を配る。つまり教授は弟子たちを自分の権威を広めるための道具として遣うというシステムが大学には依然として存在する。よって真実がねじ曲げられる傾向にある。
この傾向は内科系よりも野心ある者が多い外科系の教授に多いと思われる。逆に「あなたの治療でこんな副作用が出ました」という研究をした弟子は破門される。よって副作用や不具合があったとしても、その真実は世に出ない。また、自分の発表した治療法よりも優良な治療法があったとすると、その優良な治療法の副作用について研究した論文があるとその論文を書いた者を優遇する。よって権威者ではない一般の医師が発表した優良な治療法は、副作用を誇大広告され、エビデンスがしっかりしていないことを徹底的に暴き、論文として価値がないかのように吹聴され抹殺される傾向にある。さらにその治療法を真似た者は破門するなどの圧力をかける。よって真に優良な治療法が世間に広まりにくいのが医学常識である。
真に優良な治療は、特殊ではなく、大衆的で費用もかからなかったりするものである。そういう治療法が広まれば、利権を得ることができない。よって一般の医師が開発した真に優れた治療法は常に抹殺されて世に広まらないことが多い。だから私はこのHPに掲載してある認知症治療などが広まらないことをすでに覚悟している。代わってお金のかかる利権がらみの特殊な治療は誇大広告されて世に広まる。残念ながらこの状況が改善されることは未来永劫ありえないので期待しない。臨床医学の教授たちが示すエビデンスはいつの世も作為的であるが、権力こそがエビデンスとなる大学のシステムがある以上、彼らの論文は逆に信用ならないともいえる。私は常にそうした視点で彼らの論文を読んできた。

基礎医学者に相手にされない臨床家

これは私の事例である。私は疼痛を取り除くための神経ブロック療法をいろいろと研究し、疼痛に関しても勉強している。そして関節痛や筋肉痛の原因が「神経根の炎症により様々な知覚信号が痛覚信号へと変換されるシステムが作動する」ことによると結論付けた。結論付けた理由は、神経根ブロックを行うことで関節痛や筋肉痛を完治させることが8割以上の患者で成功したからだ。私の言う完治とは1か月以上症状が3割以下に軽快している状態が続くと自分で定義している。
これまでどんな治療を行っても治らなかった関節痛や筋肉痛が神経根ブロックを1度行うだけで完治するということを多くの患者で経験したので、関節や筋肉の痛みの原因=神経根の炎症と結論付けた。この治療法が確立されたおかげで他の医師が治せなかった関節痛・肩こり・頭痛などを次々と完治させたが…
これを神経生理学の準教授にお話したところ「先生がハンサムだっただけで、女性患者はけろっと治ったりしますからね」と言われ嘲笑された。さらに「神経ブロックは基本的に全ての痛みを取り除くので、関節や筋肉の痛みが取れるのは当たり前ですよ。痛みがとれたから関節や筋肉の痛みが神経の炎症が原因とは言えません。」と言われた。私はこの会話で臨床家がいかに基礎医学者に不信感を持たれているかを知った。基礎医学者は臨床家に壁を作っている。

基礎医学者には次元の違う臨床現場

「関節痛・筋肉痛は神経根ブロックで痛みがとれるのは当たり前」と神経生理学の准教授に言われたが、それは真実ではない。彼ら基礎医学者には理解しえない次元の違う話である。私は常に様々な治療法を患者にトライする。そして「もっとも効果的な治療がどれか?」の答えをはじき出しながら治療をする。膝が痛いと言う患者に、膝注射単独、トリガーポイント注射、神経根ブロック、それらの組み合わせ…というように常にいろいろ試すのである。
ところが、痛みの原因部位にヒットしていない治療では「痛みはとれるが、数時間しか効果がない」ことを学習した。例えば、膝関節の変形が原因で膝が痛い場合、膝関節内に注射すれば痛みは1週間以上消失しているが、この患者に神経根ブロックを行って除痛した場合、その効果は数時間しかない。「治療の箇所が原因個所と一致しない場合は効果が短く完治しない」ことを臨床経験上学習したのである。そういう真実は基礎医学者にとっては次元の違う話であって、私が説明しても一切理解してもらえなかった。理解できるはずがなかった。
逆に膝関節の痛みの主な原因が神経根炎に起因している場合もあった。他の医師に膝関節内注射を何度も治療してもらったが、痛みがおさまらない。そうした患者に神経根ブロックを行ったところ、たった一度の治療で痛みが完全に消失し、さらにそれ以来痛みが全くなく完治したという症例を数えきれないほど経験した(少ない人数ではない)。こうした経験から「痛みの原因個所以外を治療すると、効果時間が短い、または効果が不十分」であることを学んだわけだが、基礎医学者は私の意見に耳もかさなかった。だから彼らの研究も進まないのである。臨床データを信じないようでは、基礎医学も先に進まないのである。お互い様かもしれない。

トリガーポイント注射の有効性

一方、原因個所ではなく「痛い場所(トリガーポイント)」にブロック注射を行っても完治する例があることは私も知っているし、私も多数経験し、私もトリガーポイント注射を多用している。 これが二つの誤解を生む。
 
  1. 痛みの原因がトリガーポイントの炎症であるとする誤解と、
  2. ブロックをすればそこが原因個所でなくても治るという誤解である。
1、の誤解は学会レベルで誤解されている。線維筋痛症学会は過去において1を支持する理論を唱える学会であった(今は七変化してありとあらゆる痛みを線維筋痛と言うようになった)。この学会では、私の記憶が正しければ当初「筋肉の痛みの原因が筋肉線維にある」と述べていたはずだが・・・。私はトリガーポイント注射で治らなかった肩こりや背筋の痛みを、神経根ブロックで数多く完治させてきた。つまり筋痛の多くが神経痛由来であると示してきた。だから線維筋痛症という病名に違和感や嫌悪感を持っていたが、線維筋痛が近年は神経因性疼痛であるといい始めたから驚いている。言っていることが真逆ではないか(笑)。時代の流れはおもしろいと感じる。それは置いておいて、いまだに肩こりは筋肉の炎症(トリガーポイントに起こっている炎症)であると考えている者が大半を占めている。
2、の誤解はまさに、さまざまな疼痛論文で耳年増になった臨床を知らない基礎医学者のいいぐさである。たしかに、原因個所と異なる場所に注射をしても完治することはある。しかし、それは「トリガーポイント注射がきっかけとなって自然治癒が早まった」と私は考える。そこには基礎医学者が知り得ない次元の話しがある。それは「病気には回復期というものがあって、回復期には治療効果の少ない治療でも自然回復に向かう」というものだ。それを学ぶことができるのは、実際に慢性の痛みをことごことく治療して来た臨床家の医師のみであり、治せなかった医師たち、治した経験のない基礎医学者には理解できないことだろう。

よい内科治療を認めない外科医たち

基礎医学者たちは臨床医学者たちを軽蔑しているもので、同様に内科医は外科医を軽蔑している場合が多い。その理由はいろいろあるが、そのひとつに外科医は「内科的には治らないから手術をするしか方法がない」というものの言い方をすることがあげられる。外科医は内科的に保存的に治療することを過小評価し、自分の手術の腕を過大評価し、手術後の合併症や事故のことをおおいに過小評価する傾向がある。耳鼻科、整形外科、泌尿器科、婦人科など内科と外科が分かれていない科では、治療に対して内科派と外科派に分かれて犬猿の仲となることもある。
しかしながらこれらの科に共通していることは「教授の多くは外科派」であるということ。つまり内科的に優れた治療法があったとしても、それらは否定されやすく広まりにくい。また、内科的治療は外科治療の利権を奪う。よって優れた内科的治療があったとしてもその療法は外科派の教授によってケチをつけられてしまい、学会で認められにくいのが現状である。大学を離れ、学会を離れ、開業医が研究すれば優れた内科治療が開発されるであろうが、開業医はお金儲けに執心でそういう論文を発表することに興味がない。

臨床医学の教授の論文は誇張されている

基礎医学と違い、臨床医学は大きな利権と直結する。利権が絡むところに真実は影を潜める。これは医学に限ったことではなく、利権の絡む全ての学問で同様の事である。とりわけ医学の利権はどの国でも国家予算の数割を占める最大の利権が絡む学問である。よって真実ではない論文が、統計学マジックで修飾されて真実の皮をかぶって世に広まるものである。基礎医学者たちはそれらを軽蔑するか無関心である。
彼らの論文は教科書に掲載され、そして彼らの死後、それらの論文の不備が指摘され、医学の教科書が改訂されるということが繰り返されている。よって臨床家の作成した医学書は100年もすれば全く使えないものと化している。それにひきかえ基礎医学書は100年経っても内容がほとんど変わらない。つまり真実に近いことがわかる。常に改訂されるのは臨床の医学書であり、いかに臨床医学に嘘が多いかがわかる。

臨床医学は三段論法である

医学で常に考えなければならないのは因果関係である。何が原因でどう悪くなったか。何がきっかけでどう治ったのかという因果関係である。因果関係がはっきりしていない出来事は非科学的である。ところが臨床医学は因果関係がはっきりしないものが非常に多い。その中でも因果関係がきわめてあいまいなものが痛みである。たとえば頭痛や腹痛の真の原因が判明することは極めてまれである。腰痛や肩こりもそうである。心臓の痛みが肩こりや歯の痛みとして感じ取られる場合さえある。
私の知る限り、痛みには中枢感作や軸策反射、根反射、関連痛など原因が多岐に渡り、原因を特定することは今の科学で不可能である。痛いと感じている場所が痛みの原因となっているような単純な症状は、むしろ慢性疾患ではほとんど存在しない。
つまり「○○が腫れているから○○が痛い」というような単純な因果関係はほとんどなく、○○が炎症を起こし、△△の知覚信号が経路を変えて疼痛伝達に変換され□□が痛くなる。さらに交感神経の信号も合流して痛みを増幅している。というようなかなり複雑なシステムが働いている。しかしながらこうした真実は語られることはなく、「風が吹いたら桶屋がもうかる」という三段論法が臨床医学の主流である。私は臨床医学は非科学的であり論理的ではないと常々感じている。
整形外科領域では椎間板ヘルニアがある→痛みを引き起こす 脊柱管がせまくて神経を圧迫する→痛みやしびれを引き起こすなどと三段論法が用いられているが、その非科学的な理論を、科学的だと信じている医師が多い。しかし、真実はもっと複雑である。ヘルニアが神経を圧迫して痛みが来るのではなく、ヘルニアが神経の通り道を迂回させるため、神経の走行距離が長くなり、神経に張力がかかることで神経根が椎間孔に密着することで炎症を起こし痛みが来ていると仮定したとする。この場合、ヘルニアを除去すれば痛みは消えるが「ヘルニアが神経を直接圧迫し、圧迫部に炎症を起こしている」と考えることは思慮が浅く非科学的だ。ヘルニアは神経に強い張力を与えているのみであり、痛みの主体は張力。その張力が原因で、椎間孔という別の場所で炎症が起こっている。圧迫力が原因ではない。ヘルニアと痛みは間接的な因果関係はあるが、直接の原因ではない。
「風が吹いたら桶屋がもうかる」ということわざとと同様「ヘルニアがあると痛くなる」はまさに三段論法そのものであり、科学的ではない。
また、こんな話もある。椎間板ヘルニアがほとんど存在していなくても、椎間板を除去すると痛みが消失する。これは事実である。椎間板が除去されると椎間が狭くなり、脊椎の全長が短縮する。その分神経にかかる張力が少なくなるからだと仮定できる。この話から推測すると、痛みの直接原因はヘルニアによる圧迫ではなく、ヘルニアにより神経に張力がかかるからだということになる。だからヘルニアが存在しなくても、張力が強ければ痛みが出現するという逆も真なりである。また、ヘルニアがあっても張力が強くない場合は痛みが出現しない。という結論になる。それを示すように高齢者のヘルニアは痛みを伴わないことが多い。
ところが臨床医学は真実をねじ曲げる。ヘルニアを除去する手術をすると痛みが消失するという因果関係は確かにある。よってヘルニアが「神経を圧迫しているせいで」痛みが来ると発表してしまった。何度も言うが、圧迫されていても神経に強い張力がかからない場合は痛みが来ない。つまり「ヘルニアが神経を圧迫して痛みが出る」は誤った考え方である可能性が極めて高いと私は見ている。
  •  だが、ここで統計学という「嘘を真実に変えてしまう魔法」がある。
MRIでヘルニアがある人と痛みがある人の相関関係があることを統計学的に示す。示した上で「ヘルニアが神経を圧迫するから痛みが来る」と発表する。そうすると、この「真実ではない発表」が科学的根拠あり!と世間に認められてしまう可能性がある。症状と原因の因果関係は、たいてい複雑であり、AだからBというように単純に結びつかないことがほとんどである。真実はAがBを引き起こし、そこにCが加わり、Dという条件下でEが発症する、というように因果関係は複雑である。だが、統計データをとるとA→Bは「相関関係あり」となることは真実である。この真実を逆手にとって、「AがBの直接原因である」という推測を吹聴して回るのが臨床医学の罪である。だから統計学はそもそも「因果関係を証明できる学問ではない」ことがうたわれているのだが、科学者たちはそれを無視しすぎている。
臨床医学の多くはこの手の嘘に満ちている。だから彼らの理論は信用できないのである。もともと因果関係については統計学でエビデンスを求めるという手法は学術的に許されていない。許されていないのに科学的エビデンスと叫ぶから、余計に信用できない。それが証拠に臨床医学の医学書の内容は100年経てばほぼ全ての内容が改訂されている。

臨床データはオカルトである

臨床論文は様々なオカルトを生み、オカルトが様々な臨床論文を生む。よくある話が「インフルエンザの予防注射をする→インフルエンザにかからない」という論文。これに確証を出すことは永遠に不可能である。なぜならインフルエンザを起こすウイルスは数多く存在し、しかもウイルスは突然変異し自分自身を変化させていく。また、ウイルスに暴露しても、感染するとは限らない。因果関係は想像以上に複雑である。
私は医師をしているのでインフルエンザ患者と接触する。しかし私は予防注射を受けたことがなく、この10年間でインフルエンザに感染したのは一度しかない。予防注射がインフルエンザを予防するという理論を私は同意できない。また、私の子供は毎年必ず予防注射を受けているが、毎年ほぼかならずインフルエンザに感染し、学校を休んでいる。
真実をいえば、感染の有無に直接の因果関係を持つものは「人の免疫力の状態」であり、それ以上でもそれ以下でもない。予防注射が感染を防ぐ率よりも、十分な睡眠とストレスのない生活のほうが感染率を格段に低下させる。予防注射で防止できると考えるのは一般大衆の希望であり、そうした希望が科学を歪めている。大衆が望むからこそ臨床医が統計学を使って話を作る。医学も商売である以上、利権で真実が隠される。基礎医学ではそうした利権がないからこそ、科学の聖域でいられるのである。だから私は基本的に臨床医の示す論文のほとんどを信用していない。臨床医の論文は三段論法そのものであり、科学ではない。統計学という調味料を用いて科学風味を出している。
では何を信じればいいのだろう。それは医学書ではなく、目の前で実際に起こっていることを信じればよい。著明な教授たちはそれをしないから真実に突き当たらないと思う。真実は学者にとっておいしくない。おいしくないものを研究しても教授にはなれない。医学論文の多くは己のプロパガンダであると感じる。もちろん、そうしたプロパガンダのおかげで医学は進歩するので結構な話である。だが、どれほど著名な科学雑誌の査読に通ったからと言って、信じるに値するとは言えないのが真実である。その真実を見つめることで、真の治療が見えてくるものである。

学者が抱く臨床家への不信感」への1件のフィードバック

  1. 拝見させていただきました

    少し極論かもしれませんが
    利権のためにデータをねじまげるかたはけっこういるようですね

    NATURE他、医学誌でも統計データの誤りや意図的なウソ論文が多数あったようで そのなかにはハーバードなどの著名な大学のものも数多くあったそうです 

    改善した症例があるというなら 試してみるべきだとは思いますが
    (それに危険が伴わなければ出すけど)

    統計学しか証拠がないような論文はかなりうさんくさいですよね

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