医学に嘘が多い理由

治療の医学と破壊の医学

  •  治療の医学と破壊の医学、常に勝つのは破壊の医学である。
破壊の医学とは「この神経を切断(破壊)したらここが動かなくなった」ということを元に、「この神経はあの筋肉を支配している」ということを証明する医学。
破壊の医学は「切断する」という簡単な労力で神経支配という医学的な発見を立証できるため研究者たちのほとんどは破壊の医学を実行したがる傾向がある。破壊はたやすく証拠も十分。これに対し治療の医学はこの傷ついた神経にあの薬を使ったら治ったということを示し、なぜ治ったかを推論してその治療法を伝えていく学問。治療の過程には何百という複雑な過程があるため、この薬の何がどう作用して治ったのかを証明することは困難。よって実際に奇策を用いて病気を治すことができる医師がいたとしても、その医師の理論が認められることはまずないので治療の医学は認められにくく広がりにくい。治療の医学を志す医師と破壊の医学を志す医師。常に世のトップに行くのは破壊の医学者となる。

正しい医学知識とは

「正しい知識を伴わぬ言葉をもって無知なる忠告をするのは誰か!」と権威を持った医者は適当な治療をする者をののしることが多々ある。これは、たとえば整体師が「骨盤のゆがみを治せば全ての病気が治る」というようなことを吹聴してビジネスをする姿を戒めた言葉である。私も医者なので戒めたい気持ちはわかる。しかし、正しい知識とはなんぞ?を追究すると意外な事実が分かる。
医学というものは解明されている知識が5割。未解明の推測知識が5割と考えていい。つまり、本当に知りたい知識の多くはまだまだ未解明というのが真実。ところが世間的には解明された正しい知識9割に未解明の知識が1割くらいに思われている。それは医学者たちが未解明である5割の知識のうちの4割を自分の推論で勝手に解明したかのようにふるまうからなのだ。
教授などの権威者は己の権力を用いて推論を正論にすり替える。こうして医学には9割の正しい知識があるように見え、しかし実のところそのうちの4割は今の医学では証明できない嘘である。4割の嘘が正しい知識と言われている。正しい知識とは学会や権威者が決めた法則や基準を示すものであり、真実を示すものではない。それらは数十年後には間違いであることがわかり修正される。権威者が亡くなるまでは間違いが修正されないことも多く、その間医学は大罪を侵すこととなる。ゆえに医学知識の4割は世間に大きな混乱を引き起こす。正しいと思われている知識が間違いであった場合に、被害は甚大になる。

真実は何よりも強いがゆえに世に出ない

医学だけでなく、全ての学問の最強は「真実」である。真実はジョーカーであり他のどんな理論も真実のカードを切られれば負ける。真実が証明され真実が世に出てしまうと自分が半生をかけて築いた理論を単なるたわごとに変えられてしまう。
真実の数は世に一つしかないが、真実以外の正論は世に腐るほどある。真実のジョーカーを切る者は少数だが、正論といういろんなカードを切る者は5万といる。よって真実を世に広めようとする者は正論吹聴者によってつぶされる。数で負ける。覚えておいてほしい。これはいつの世も正論だ。半生をかけて自論を展開してきた権威者が、真実を認めることは死んでもない。たとえ真実が出現したとしても、他の未解明な部分の理論をほじくり返し、その真実が全例において通用しないことを証明しようとする。これが学問だ。つまり、真実にいちゃもんをつけることは常に可能だということだ。もしも真実を世に広めたいなら、5万といる為者と戦う覚悟で一生をかけて理論を証明しなければならない。しかし真実を追究する者は出世に興味を持たないのでそこまでして自分を世に残したいと思わない。真実の探究者は真実を広めることで他の正論者の人生を潰してしまうことも知っているので控え目にならざるを得ない。

利得があると真実は追えない

人は誰もが名誉が欲しい。しかし欲望が芽生えると真実から遠ざかる。それはどうしても自分の都合のいいように結果を変えてしまうからだ。悪く言えばデータ改ざん。よく言えば「ひいきめ」。たとえば医学部の教授は製薬会社と蜜月なつながりを持つ。薬のデータは教授の力を持ってすれば多少の改ざんができる。副作用の報告を削り、よいデータを2割増しにする。その結果「たいして効きもしない副作用の強い薬」が「最高の良薬」として世に出回る。実は今でもたいして効きもしない薬はたくさん存在する。
自分の治療法に過剰の自信を持つプライド高き医師は、自分の治療で治らない患者がいるとその患者を精神異常者扱いし、治らないことを患者のせいにする。このように自分に甘えがあると真実を追究することはできない。教授などの権威者は、若いころから権威を常に強く欲しがってきた者たちが多い。そうした私利のために全力で動く人間が、自分で発見した真実に突き当たることはそうそうない。真実は欲深き人間が追えるほど甘いものではない。ただし、基礎医学者は出世欲が少ないので真実をつかむ可能性が高いと思われる。

破壊の医学は冷酷非情

残念なことだが、破壊の医学は2度の世界大戦(第一次世界大戦と第二次世界大戦)で大きく進歩した。捕虜を用いていろんな破壊実験ができるからだ。破壊はたやすく、そのデータを発表すれば一躍教授になれる。戦時中はそういう野心を持った医師たちの蜜の時代であった。それは倫理が通じない悪魔の時代とも言える。皮肉なことに、その悪魔のおかげで大幅に医学は進歩することになった。例えば、骨膜の神経支配領域を調べたマップが存在するが、過去の時代にどうやって骨膜の神経分布を調べることが出来たのか?想像すると身の毛もよだつ。神経根を切った後に骨に針を刺していき、痛みを感じる点と感じない点を調べて行ったのか?と想像してしまう(あくまで勝手な想像)。
もちろん現代も蜜はある。不治の病に侵された者たちは野心を持った医師にとっては蜜である。どんな苦痛を伴う治療も受けてくれる。命を失うかもしれない強い副作用の薬も飲んでくれる。新薬の実験台になってくれる。死ぬまでお金を支払い続けてくれる。不治の病に侵された者たちは多くの破壊の医学の実績を提供してくれる。だから大学病院には不治の病の者たちであふれかえる。いわゆるまな板の鯉である。
大学病院を悪とは言わない。彼らの破壊の医学のおかげで、彼らの名誉欲のおかげで、医学は常に大きく進歩する。しかし、ふと振り返り、医大の教授も一人の人間と考えたとき、彼らの行うあまりにも非常で冷酷な医療作業に、ときに背筋が凍る思いをする。そう感じるのは私だけではない。

真実の探究者

真実を求めたいのなら私利私欲を捨てなければならない。これは人間の普遍的な真理である。欲望がからむと自分の都合のよい方向に結果を無意識に曲げてしまうからだ。それは無意識に…であるから人間である限り避けることが出来ない。この無意識に事実を曲げてしまうことから脱出するためには一切の欲望を捨てる必要がある。
欲を捨てるとは出世欲、名声欲、金欲、人気欲などもさることながら、安全、プライド、リスク回避、責任回避などの保身をも捨てなければならない。保身を捨てるには家族があったのでは難しい。したがって出家でもして家族を捨てて、完全な独身にでもならなければ真実の探究者にはなかなかなれない。
医師が真実を探求するのであれば、100%患者の立場に立つだけでは無理である。自分の精神鍛練のために、自分の治療技術を磨く修行のために患者を治療していく必要がある。そのためには常に今の自分を超えていく診療をしなければならない。それを実行すれば今の治療法が来年になれば全く違った治療になっているほどの進歩を遂げる。その毎日の繰り返しを命ある限り続けるのが修行というものだ。
患者を治すのではない。修行の場として、修行の証拠として目の前の患者の「最大幸福を追求する義務」があるだけである。そこに欲を挟む余地はない。患者に好かれようとすると真実から離れる。目の前の患者の性格、社会性、家族構成、体力、年齢、職業などからはじきだした最大幸福がどこにあるのかを考え、その中の最良作に向って治療の腕をふるう。それが医師としての真実の探求である。
真実は一つしかない。最良だがら一つなのであり、それは患者の最大幸福でしかない。目の前の患者にとって自分ができることで何が最大の幸福であるか?を考えるためにはまず自分自身が無欲の状態にいなければならない。そして日々修行の積み重ねをし、死を感じながら生きていなければならない。そうでなければ患者のためによかれと思って忠告することが「最大の幸福」にならず恩着せがましいものとなる。
そういう意味で真実の探究者は永遠の修行者でなければならない。だからいつの時代も教授や政治家など、権威を求める者たちが真実の探究者であることは少ない。真実の探究者たる医師はこの日本にも数えるほど存在するが、彼らはジョーカーを切る者たるがゆえに権威者から嫌われ、外様として地方を徘徊させられている。その者たちと出会うには運が必要だが、あなた自身が真実の探究者であれば、彼らはあなたと会うことを拒んだりしない。

破壊の医学は切り捨ての医学

  この神経を切ればここにこんな症状が出る。ここが悪い人はこういう体位をとると痛みが再現される。このような破壊的な実験を繰り返して理論を確立していくのが破壊の医学である。しかし「このような」とは「どのような」ことなのか?
  •  「このような」とは「一対一対応である」という意味である。
破壊の医学は、切る→症状が出る、体位をとる→痛み(しびれ)が出る、というように原因が一つで結果が一つというように対応する。だから原因が二つ以上ある症状には対応できない。これが破壊の医学を基礎として理論構築された現代西洋医学の欠点である。
たとえば、神経のL4が障害されていれば足の内側がしびれ、L5が障害されていれば甲がしびれS1が障害されていれば足のうらがしびれるというのが一対一対応。だから足の甲がしびれている患者が来ればL5が障害されていると推測するのが西洋(破壊の)医学であるが…では下腿全体がしびれている患者が来たらどう診断するか?これが診断できないのが西洋(破壊の)医学なのである。実際にこの質問を医者にしてみるといい。ほとんどの医者が足にびまん性のしびれがあるなら、それは器質的な病気ではないと診断する。
下腿全体がしびれるパターンは靴下型のしびれと言われ、これは糖尿病や膠原病での末梢神経障害、その他の関連疾患と扱われ、「これは整形外科の疾患じゃないので他の科をあたってください」と言われ、整形外科での診療を放棄されることがある。しかし、L4とL5とS1の神経が障害されれば、靴下型にしびれるのは当たり前。しかし、そのように考えることをせず、靴下型にしびれた患者を目の前にすると整形外科的ではなく糖尿病などが原因だと誤診するのが西洋医学の欠点である。西洋医学の論文はほぼ全てが1対1対応だからである。
知識というものは人の視野を狭めるものだとつくづく思う。しかも知識が豊富で研究ばかりしている先生ほどかえって視野が狭いと感じる。典型的な1対1対応的思考に脳がとらわれてしまうからである。この破壊の医学論者により、どれだけ多くの患者が「まともな診療を受けられない」でいるのかご存知だろうか?まあ、知るよしもない。多くの医者は自分の診療がまともだと信じているだろうから…。
これは批判ではない。なぜ西洋医学が冷酷で患者を切り捨てるのか?の仕組みを述べているにすぎない。それは破壊の医学だからである。西洋医学の冷酷さは誰もが気付いている。どこか血の通わないところがあることを多くの人が肌身に感じている。診断基準を満たさなければ治療は開始してもらえない。ただし、その冷酷さが悪いとは言っていない。そうやって切り捨てることで理論を単純化させ、大量の寒邪をベルトコンベアーに乗せることができる。多くはそれで間に合うのだ。

医学は底が浅い学問である

  世の中の最高峰の学力がある者は世界中のどの国でも医学部を目指すことが多い。よって医者は学力偏差値の高い者の集団であることは皆に認識されている。その学力偏差値の高い者たちが深く学問を追究できるかといえばノーである。基礎医学者や数学者、物理学者のほうがよほど真剣に学問を追究している。
その理由は権力争いにある。医学の頂点を目指す者は、純粋に医学という学問が好きなわけではなく教授という地位を欲する者が多い。医学部の教授たちは自分の編み出した診断方法に自分の名前をつける。その診断方法を使えば全てのことがわかり、その診断法で除外された症状は「この病気にはあてはまらない」と無情に切り捨てる傾向がある。その傲慢さのおかげで医学の発展が止まることがある。例えば交通事故のむちうちではスパーリングテストが陽性と出なければ神経症状と認めない雰囲気がある。
こういった診断基準は絶対視しなければならない決まりになっているので、本当はその診断テスト自体があまり的確ではないかもしれないという思考をすることを禁じられている。これが医学を底の浅い学問にしている。現実問題として歴代の教授たちが編み出した診断方法は、臨床の場では、テスト陽性⇔その病気と断定、とならない。偽陽性、偽陰性があまりにも多く存在する。彼らの単純で底の浅い診断テストで、様々な病態が重なり合った状態は診断できない。
若い医師たちはそういった名のある診断テストを絶対視し、そのテストが全てと盲信者のように信じ込むため、医学は底が浅くなる。診断テストで陽性と出れば、鬼の首を取ったかのように喜び、確定診断をつける。それはなんと浅はかだろう。
本来、人間の病気は誰一人全く同じ症状を示さない。肩コリ一つをとっても、内臓が悪い、糖尿である、高血圧である、不安でうつになっている、神経痛がある、姿勢が悪いなどなどあらゆる症状が重なって現れる。それらの重なりは複雑かつバラエティに富んでおり、単純な診断テストで判断できるような底の浅いものではない。机上の空論である診断テストで診断できるはずもない。数学的に言うならば、世の中にある全ての診断テストは確定診断への必要十分条件を満たさない。必要十分ではないことを知ることで学問は深まるが、教授たちは必要十分であるような書き方で教科書を作る。そんな教科書を勉強したのでは、真実に突き当たることはない。
概して医学は教授たちの名誉欲のおかげで他の医者たちが盲目にされ、うわっつらの学問をはびこらす原因となっている。何重にも重なる病気の症状、その症状たちがおりなす奇抜なハーモニー、それらの全てをひも解く能力は何年も何年もいろんな角度から病気を診るということをしてきた真の医学者にしか身につけることはできない。そういう診断ができる医者の診断推測の過程はあまりに複雑で、教科書に記載できるほど生易しいものではない。
真剣に病気を考えはじめると、その深さにただただ驚き、現在の診断テストがいかに意味のない稚拙なものであるかに気づく。医者の中でも1000人に一人くらいは、その真理に到達する。そして様々な角度から見ることのできる千里眼で病気の真髄を見抜くことができるようになる。誓って言うが本当に1000人の医者の中で、そういう医者は1人以下しかいない。
しかし、真理に到達するためには様々な患者と真剣に対話をしなければならない。教科書から医学を学ぶのではなく、患者から医学を学ばなければならない。が、患者から学ぶ「治療の医学」は複雑すぎて文章化することが難しい。だからこそ権力欲のある者は「治療の医学」を目指さない。論文が書けないからである。また、そこまで臨床に傾くと研究する時間がないので医師としての直感は磨かれるが、地位も名誉も得られない。そんな医者が真実に近い発見をしたところで、学会で相手にもされないし教科書に記載させてももらえない。だから本当に優れた直感という診断技術は、世界に広まることはない。だから医学は底の浅い学問となっている。
もしも医学を底の深い学問にしたいのなら、教授と呼ばれる者たちが専門に偏らず、いろんな科の患者を診察し、いろんな身分の患者を診察し、自分は偉いという傲慢さを捨て、そして医学を患者から吸収しようとする心構えが必要になる。残念なことに1000人に一人の本当に一流のドクターは教授を目指さない。だから彼らの研究は広まることもない。

博士号が嘘の温床になる

医学博士という名目が欲しい人は世間にごまんといる。医学部では教授に博士号授与の権利が集中するので教授にごまをすった者が博士号を習得できるという公正さを欠いた制度となっている。よって博士号を収得したい者は教授の自論を後押しするような研究をするとたやすく博士号をとりやすい。よって教授の「推測から生まれた理論」が医局員に後押しされて真実の化けの皮をかぶるようになりやすい。

医学は統計学である

さて、この「医学の功罪」の章には統計学が「科学とは呼べない」理由を書いてある。ここでは深く追究しない。まあ、早い話が、統計学はメジャー学でありマイナーを切り捨てる学問であるため、マイナーな疾患にかかっている患者のデータは切り捨てられる運命にあるということ。たとえば、私の患者には「手を水に濡らすとトイレが近くなる」と訴える者がこれまでに3名いたが、それは全てデータとして医学研究されることはなく、「精神異常」と扱われる。マイナーであるからだ。こうしたマイナーの切り捨てを余儀なくされるのが統計学を用いた学問の特徴であり、統計学のために医学は底の浅い学問にならざるを得ない。一方で統計学はメジャーにとっては大変有用であるので発達したし、恩恵も十分にある。西洋医学の発達は統計学のおかげであると述べる者もいるくらいである。しかし、真実はマイナーの中にあり、メジャーは常に簡素化されたシステムである。だから本当は複雑なはずの医学が簡素化されてしまう。

最後に

医学は永遠に嘘だらけの学問である。未来においては、その嘘が改正されていく。よって医学書ほど毎年改訂する書物はないといってよいほど年々嘘が発覚する。私はそれを問題視しているのではなく、やむを得ないものとあきらめている。もともと医学はそうならざるを得ない学問であるからだ。マイナーのためにある学問ではない。私はマイナーばかりを研究している。その理由は、マイナーを治療できればメジャーを治療することはあまりにたやすいことだからである。メジャーをたやすく治療する腕を磨くためにマイナーを研究する。しかし、マイナーはデータが少なく、論文として成立しにくい。しかし、マイナーに真実があるならば、真実は何年経っても淘汰されない。淘汰される論説は、いかに有名な雑誌に掲載されたところで嘘である。私は他の医師たちが書いた論文をあまり参考にしない。元論文に嘘が多いからである。嘘を参考にした論文は嘘を作る。だから自分が経験した症例しか信じない。そしてその集大成であるこのようなHPを作った。信じなくてもよいが日常の解決されない難病と闘っている患者や家族を救うためには、ある程度私の論文を参考にせざるを得ないだろう。  

医学に嘘が多い理由」への2件のフィードバック

  1. 「進歩している」という言葉の裏には
    「いまだ未完成」という意味が含まれているのでしょうね。
    どうも我々は言葉に欺されやすい人種のようで・・・
    医学が「未完の帝王」とならないように(苦笑

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