患者を幸せにする治療であれ、悦ばせる治療であるなかれ

いつから医療がコンビニエンスストアになってしまったのだろう。いつからサービス業に成り下がったのだろう。医は仁術と呼ばれた時代は去り、今は医は営業になってしまっていると感じる。医をお金儲けの道具と考えると患者=お客様であり、お客様の機嫌をよくしてさしあげることが目的となる。しかし、機嫌をとることで人が幸せになるのであれば苦労はしない。親が子供の機嫌ばかりをとっていれば子供はまともに育つはずがなかろう。嫌われてでも叱ってしつけるからこそ、子供は幸せな人生を送ることができる。
では、現在、患者の機嫌を一切うかがわず、嫌われてでも患者の幸せを考え、治療にあたる医者が世界にどれだけいるか?医療を単なる商売と考えると、患者の機嫌をとることがもっとも儲けにつながることはいうまでもない。しかしそうであってはならないと医者ならば本当は心の底で誰もが思っているはずだと信じたい。
医者が本当に患者の幸せを考えて治療するとき、患者の希望通りに治療を行うか、患者に嫌われてでも本当によかれと思う治療をするべきか迷うはずである。最近はインターネットで耳年増になって、患者が医者に治療を指図する場面が大変多い。商売ならばにこにこしながら患者の要望通りにすればよい。だが医は商売ではない。商売であってはならない。理論武装している患者と口論になってもベストな治療を進めていくのが医の姿である。それの何が悪いのだろう。患者に嫌われることをためらうべきではない。ベストな治療は患者の生半可な知識で理解できるはずもなく、いいなりになって流されてはならない。
私はそうした精神を貫き医者をやっている。患者の要望通りには、是が非でもしない。嫌われることの何が怖いというのだ。私は医を商売としてやっていない。だから当然である。しかし、さすがに経営者は私を雇って商売をしているので私は何度もクビにされた。ただし、近年はクビにされなくなった。患者が私にごっそりついてきているからだ。クビにすれば多くの患者(お客様)を手放すことになるからである。
さて、近頃では患者の家族が医者不信に陥っており、家族が本人の意志を尊重することなく図々しく治療を指図する場面にしばしばでくわす。私はそうした家族を叱責し、診察室から出て行ってもらっている。信念を通す治療を邪魔する者は、たとえ本人であっても家族であっても指導の対象となる。こうした確固たる信念を持って治療にあたってはや15年になる。15年ということは30歳半ばから「何事にも動じない治療」をしてきたことになる。
しかしよく考えると30半ばは患者から見ると若僧にしか見えない。その若僧である私から厳しい忠告を受けると、患者は激怒する。その激怒に一切動じなかった。ある患者(大企業の会長)は「おまえは一体何様のつもりだ」と言われた。私はこのセリフをおほめの言葉にしか感じない。ベストを尽くして診療すれば、このような口論は避けることなどできるはずがない。
患者の幸せを最大に考える治療は、時に患者のプライドを傷つける。しかし患者の幸せのためには一時のプライドを潰してさしあげることは避けえぬ道である。私はこのようにぶれない治療を若い時からずっと続けてきた。その結果、現在のように他の医師が治せない症状を次々と治せるようになった。患者の要望を無視してでも一心に治療をするということは、また、教科書や保健医療を無視してでも一心に治療することと通じている。
ただし、一心に治療をすると言っても、それが本当に患者の幸せを願ってのことでなければならない。人の幸せはその人にしかわからない。この問答は自分自身に常に問いただしてきた。人の痛みがわからなければ、人の幸せもわからない。だから人の痛みを肌身で感じながら生きてきた。それでも私が考える幸せが間違いである可能性がある。ただ、可能な限り間違った幸せを無理強いしないために、自分は欲にかられず中立に生きようとしている。

教科書や学会の治療ガイドラインは典型的な症状にしか通用せず、一人一人の幸せを最大に考えたものではない。よってベストの治療の前ではそのような既成のガイドラインを無視せざるを得なくなる。ガイドラインの無視=教授の指導に対する無視、学会の指導に対する無視、教科書の無視、保険医の無視であるから、これは破門を覚悟しなければならないどころか、下手をすると資格を没収される。
私は幸いにも、当時医者以外の副業で医者以上の収入を上げていたので、破門になること、職場を干されることが全く怖くなかった。もちろん教授の威厳など私には全く通用しなかった。ベストな治療を邪魔する者は教授であっても関係なく無視し、場合によっては闘った。私の治療が独自の進化を遂げたのは学会や教授のありがたいお言葉を無視してきたからと言っても過言ではない。その結果、権威者たちが「治せない」「原因不明」と言っている病気をことごとく治療できるようになったと言える。
患者の幸せを追求する治療は教科書にはないのだ。それこそ道なき道に存在している。道なき道である理由は、治療が困難の連続であるからだ。このように信念を貫く治療は現在の医学教科書とは異なった進化を遂げたが、こうした進化を振り返ると、やはり「他の医者たちには不可能」と言わざるを得ない。
私が学会や権威者の指導を無視できたのは医者以外にも生きる道があったからであり、医者一本で生きている他の医者たちに破門を覚悟で治療に一心不乱になることはとても勧められない。大金をはたいて医者にならせた親が泣く。権威は怖いし立ち向かうことも勧めない。第一、そうして開発した治療で患者に被害が出た場合、有罪判決となる可能性もある。よって権威に逆らうことは国家に逆らうことになる場合がある。そんな勇気を持って医の道を極めろ!とはとても言えない。
しかし、私はそれをやってきたわけである。マネしてほしいわけではない。ただ、医の道として患者を幸せにすることに信念を持つと、そうせざるを得ない場面にも出くわすということを言いたかっただけである。
医はコンビニエンスストアであってはならない。患者に無理やり治療を押し付けるものであってはならない。常に患者の最大の幸せを考えて治療をするべきであると思う。たとえそれが患者を激怒させることがあったとしても、曲げるべきではない。
私は他の医者が治せないものまで治してしまうので患者は最大限に甘えてくる。甘えとは生活態度を改めることなく、気軽に再発させることである。再発させてもすぐに治してくれるから再発が怖くなくなるのである。私の治療の前では。患者は病気を治そうとせず、生活態度を改めず、私に頼った生活を送る。これが甘えである。
患者の最大幸福を考えた場合「これが本当にあるべき姿なのか?」という疑問が起こる。しかし、私は近年、可能な限り甘えさせることにしている。そしてギリギリまで私単独の治療力で患者の生活を支える。しかし、それができなくなったら初めて患者の生活を指導する。指導が厳しくて激怒するならしてもかまわない。私に対して激怒し、去っていけるのであればそれこそが幸せである。
私は「私の治療なしでは生きていけない」というような重傷な患者ばかりを診ている。そして患者たちが私を嫌って離れていけるのであれば、卒業ということになる。それは歓迎すべきことである。多くの医者たちは患者を治せないからこそ、患者の機嫌を伺う。しかし、治せるのであれば機嫌を伺う必要はない。信念を通して医の道を歩めばよいだけのことである。

さて、患者を治せない医者は患者の機嫌をとって商売に走る。多くの開業医たちは医者でありながら商売人に成り下がる。そうして最近では医療商売にファンドが投資しはじめた。ファンドが国家予算を食いつぶそうとたくらんでいる。そうした不貞な輩を排除するためには、患者の幸せを考えられる医者を多く教育していかなければならない。
私は教授ではないからそういった指導ができないが、現教授たちにはそういう教育を若い医師たちに施してあげてほしいと心から思う。ファンドが医療を食い物にしようとしている危機から日本を救ってあげてほしい。ファンドが医療を食い物にしようとたくらんでいることは、私がファンドに誘われることでその存在を知った。彼らはクリニックの物件を買いあさり、そこに医者をやとって配属して、お金を量産しようとたくらんでいる。医が投機物件になっていることを放置してはならないと思う。

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