痛くない注射が一流のホームドクターを作る

はじめに

ここでは痛くない注射ができることがホームドクターにおいて最高に重要であり、痛くない注射ができるようになると教科書的には治せないとされる種々の疾患を治せる稀少で特別な名医になれることを解説していこうと思う。注射を痛くなくできる腕は想像以上に役に立つ。

医者の一生

医者の世界では大学の教授になることが最高の成功とされる。教授になるためには東京大学医学部を卒業することが最短距離であり、そういう意味では医者として成功するかしないかはある程度学生時代に決まっているとも言える。そして学会の理事長になることはさらにトップの証。しかし、彼らは教授を退官してからはただの人となる。それでもプライドだけは天高く、名もない診療所で働くなど到底できない。ゆえにみじめな老後が待っている。名があるゆえに名もないところでは医者を続けることができないみじめさである。
世界から注目を浴びた難病のスペシャリストも、右に出る人がいないほどの手術の腕前も、大きな病院を離れると一人の単なる医者になりさがる。それは教授に限らない。チーム医療で第一線で活躍した輝かしい外科手術の功績も、チームを外れると自分一人では何もできないことに気づく。たとえチームを自ら作っても、自分の高齢化には打つ手がない。皮肉なことに、チームでは大成しなかった三流の医者も開業してホームドクターとなってから、地域で多大な貢献をし幸福感に満ちながら医者を続ける者もいる。すべては60歳から始まる。それは医者も高齢化するのだから理解できるだろう。高齢となり、第一線で手術ができない肉体。大学を退官した身。そこからどのように全力を尽くして生きられるか?考えたことがあるだろうか?

高齢化社会を救えるのはホームドクター

大学病院の高額医療や最先端医療技術は高齢には無力である。しかし、日本は超高齢化社会に突入した。つまり最先端の医療が無力化される患者の割合が莫大となっている。彼らを救えるのはホームドクターだけである。つまり無情で残酷な高齢という絶望と日々戦うホームドクターのみが国を救える存在となる時代である。皮肉な時代である。高齢と戦う方法は教科書には載っていない。前人未到の難題である。教授の知識も専門家の腕も全く無力な混沌とした領域である。そこに踏み込めるのは彼らを本気で治療しようと必死にいろんな小技をあみだしたホームドクターである。
教授をはじめ専門家となった医者はホームドクターを蔑視する傾向があるが、実際のところ高齢者を治療する腕はホームドクターの方が高い。そして彼らは教科書にも載っていないような治療を試し、小技を重ねて高齢者の治療をそれなりに成功させている。その道のプロと言われる教授たちが見捨てた高齢患者を彼らは熱心に治療し、それなりに成果を出す。それらは形容しがたい充実感と満足感である。
一流の外科医も、難病奇病のスペシャリストも、名だたる教授も、最後にはホームドクターとなる。ならば若いころからホームドクターのトップを目指せば、人生が終わる最後の日まで全力を尽くせる医者でいられる。チーム医療に酔いしれた医者たちは、60歳を過ぎてからは蝉の抜け殻になってしまう。
自分一人でもできる医療を磨いた者は大道芸人の芸のように、修行を積めば積むほどその技に切れが出てきて、歳を重ねるほど深みがます。そういう医療ができるのはホームドクターでしかない。ホームドクターをあざけ笑った医者たちは、その医療技術が彼らの足元にも及ばなくなる。今の医学では治せないとされている疾患を様々な工夫をこらして治せる医者は全国各地にぱらぱらと存在する。彼らの治療技術は毎日の積み重ねから生まれたものなので簡単に真似ることができない。ただし直感がなせる治療なので論文にもまとめられない。
だが、治せる腕があることだけで彼らは大いなる充実感を得ている。ただただ目の前の困っている患者を自分の特殊能力で助ける。自分しかできない自分のオリジナルの治療法で他の医者がさじを投げた患者を救う。いずれは誰もがホームドクターになる。その時に過去の地位や名誉だけをひけらかすつまらない医者になるか? 修行を積んで高齢にまつわる様々な病気を的確に治療できるスーパーな医者になるか? 前者には未来が暗いが後者には死ぬ直前まで光が差している。
高齢という他の医者がさじを投げる自然現象。それに立ち向かうホームドクターが今最も必要とされている医者である。ホームドクターを医者の墓場だと考える余地などない。そして痛くない注射ができるようになると間違いなくスーパーホームドクターの道が拓ける。

治療技術が向上すると患者側に壁があることを知る

私はこれまで「他の医者が治療をあきらめた患者」ばかりを専門に治療してきた。もちろん疾患は整形外科領域であるが、皮膚科・婦人科・泌尿器科に範囲が及ぶこともある。とにかく教科書的には打つ手なしと言われるものをどう治療するかに真剣に取り組んだ。そして難病を治療できるようになった。
私の言う難病とは命を落とすような病気ではない。例えば「手足のしびれ」「長年続く頭痛や肩こり」である。誓って言うがこれらを本当に治せる医者は世界を探してもそうはいない。私は様々な「生活習慣の上での難病、高齢と共に出現する難病」を実際に治療できる腕を身に付けたが、治療の最大の弊害は患者の恐怖感と好訴性だった。私はこれらを特殊な注射で治療できるのだが、患者自身が注射を拒否するのである。このハードルは「治せる医者」にとっては想像以上に大きい。
私たち医者は「くすりでは治らない患者」を目の前にすると多大なストレスを感じる。それは患者が治らないことに対して怒りを医者に向けるからだ。はっきり言うと肩こり、頭痛、腰痛、しびれなどは薬を処方しても理学療法を行ってもすっきり治ることは少ない。これは現医学の限界点であり医者が患者の治療に手を抜いているわけではない。打つ手がないのである。それを患者に説明しても納得しないので怒りをまともに受けることになる。
目の前の患者から侮辱され不信の目で見られ、怒鳴られる医者というものは哀れなものである。そんな哀れなホームドクターに退官した教授がなれるだろうか?しかし、それらを治せるのなら話は変わる。治すか治さないか?の選択肢を患者に突きつけることができるからだ。患者は診察室に入ると同時に怒りに満ちている。痛みを治せない医者に対して「どう責任をとってくれるんですか?」という態度でやってくる。問題ない。私は笑顔で「治せますよ、ただしあなたの勇気と根性次第ですね」という。
そこで注射による治療法を説明し、初回治療で完治する確率や合併症、副作用、成功確率などを説明する。そして選択権を完全に患者に渡してしまう。ここでノーマルなパーソナリティの持ち主ならば治療を選択する。選択するということは治療による万一の不具合も、治療が成功しなかった場合も責任は患者自身がとるということを意味する。だが世の中にはいかれたパーソナリティの患者が大勢いる。医者が注射治療を行うのであれば、それによるどんな不具合も責任はすべて医者がとらなければならないと主張しようとする非常識な患者がいる。こういういかれた患者に治療するのは医師免許を燃やすに等しい。
非常識な患者はどんなささいな不具合にも訴えを起こす。例えば注射が痛い、注射の跡に貼ったテープでかぶれた、注射後めまいがした、注射後手がしびれた…などなどきりがない。これらに対して「いつでも訴えてやる」という構えを見せつつ高飛車に迫る患者が30~40代の働く女性に多いという印象を受ける。もちろん訴えても裁判では患者が負けるが、ありとあらゆる手を使って病院全体にいやがらせをして復讐しようとするのでやっかいである。普通ならこういう患者には関わらないのが医者の常識である…が、私は関わってきた。自分を崖っぷちにおいやって治療技術を上げる修行の一環として。
いかれたパーソナリティ(ヒステリー性人格障害者)に治療をするにはどんな些細な不具合も許されない。注射でわずかな痛みを与えると、その痛みがトリガーとなって慢性的な疼痛障害を引き起こす可能性もある。こういう患者に注射で治療し実際に訴えられた医者は数多く存在する。それを知りつつ治療をするのは火の中にガソリンをかかえて突入するようなものだ。さあ、今からこのいかれた患者に注射をしましょう…これはナイフを背中に突きつけられながら注射を行っているに等しい。
そこまでしてなんで治してやる必要があるんだ!と思うだろう。特に治す腕を持っている医者ならそう思うだろう。「義を見てせざるは勇無きなり」この一言である。
さて、こんな緊張感に満ち溢れた診察室というものを想像してほしい。私の診療は決してなごやかではない。毎回いろんな意味で空気が冷たく張っている。冗談を言う雰囲気ではない。そういう空気の中で「痛くない注射」を精神を集中させて行う。治せる医者にとってその障壁は患者側にあるという意味がわかっただろうか。「訴える構え」のいかれた患者でさえ肩こりや頭痛で苦しんでいる。それを取り除けるのであれば治療をしても恨まれることはない(感謝もされないが)。
ただし、治療に際してはどんなささいな不具合も起こしてはならない。したがって注射の痛さは極力少なくすることが結局自分の身の安全のために必要になるのである。
これを読んでいる医者が、私の真似をして「義を見てせざるは勇無きなり」などと無理な治療をしないほうがいい。私はこの領域に来るまで小さな真剣勝負を毎日毎日積み上げてきた。その実績が今の私の精神状態を築いているわけで、最初からこのように振る舞えたわけではない。まずは注射を痛くないようにすること。そしてヒステリー性人格障害者の傾向が少しでも見える患者には絶対に手を出さないことをすすめる。

痛くない注射は不治の壁を越えられる

私は数多くの治りにくい手足のしびれ、筋力低下(麻痺)の症状を完治させた実績を持つ。さらに直腸膀胱傷害(便漏れ、過活動性膀胱)なども完治させてきた。これらは今の医学では解決策なしに等しい疾患である。医学書を見るとしびれはどんなブロック治療しても治りにくいとある。ブロックを数回やっても効果がない場合は外科的な治療を考慮するとも書かれている。しかし、数回行っても効果が少ないブロック治療を数十回、数百回行えばかなり治るということをほとんどの医者は知らない(ペイン科の医者なら知っている者もいる)。
これは常識を超えた多数回のブロックが不治の病を治すという例である。例えば1つのブロック注射では治らないものを腰部硬膜外、仙骨裂孔硬膜外、神経根ブロックの3種同時で注射するなどの治療で治せることがある。こういった発想は名のある教授の頭脳にはあまりない。ホームドクターならではの発想だ。そして小さな治療実績から大きな実績を積み重ねて本当に腕の立つ名医になっていく。
さて、このようなしらみつぶし的な注射を患者が受けてくれるか?といえばノーである。注射は痛い!これが最大の理由である。ペイン科の注射が上手な医者でさえこの「注射自体が痛い」という壁をなかなか越えられない。したがって不治の壁も越えられない。患者に多数回の注射を受けさせるためには痛くない注射の腕を身につけなければ無理である。

痛くない注射は手術という選択肢を消し去る

まあ、前回と同様の話ではあるが…世の中には注射を2週間に1回、定期的に受けられるのなら、手術を受けなくとも天寿をまっとうできる変形性関節症の患者が五万といる。確かに腕の立つ関節外科医の手にかかれば、人工関節置換手術で痛みをほとんど消失させることができるが…手術合併症は軽視できない。自分が患者の立場であったなら、手術を受けるよりも注射で治したいと思わないだろうか?
だが、毎回受ける注射が痛いのなら話は別である。痛い目にあうのなら手術という大きな苦痛を1回受けた方がましという考えとなる。しかし、私は膝関節も股関節も自分が治療している患者で手術に踏み切った例は1例もいない。特に股関節注射は効果絶大であり、手術をすすめられている患者でさえ、痛みがほとんど消失してしまう。注射が痛ければ患者は通院を苦痛に思い始めるが、痛くない注射のおかげで患者は苦痛を感じず、手術を経験しないで済んでいる。高齢者はもともと運動量が多くないため、人工関節にしなくても注射治療で十分日常生活を送ることができる。ホームドクターに腕があれば手術という選択肢はほとんど消去できる。外科医の仕事を干してしまえるのである。

痛くない注射は治療成功率を格段に上げる

注射が痛くないとなぜ成功率が格段に上がるか?不思議な話である。だが答えは簡単だ。各種関節内注射やブロック注射は的確な場所に薬液が入っていないことが非常に多いということだ。つまり注射失敗例は非常に多い。医者も気付いていない(気づかないフリをしている)。
失敗の確率はほとんど患者に依存する。肥満体質、高度な変形、特殊な体型などなど、入りにくい患者には何度繰り返しても入りにくい。そのうえ注射手技に多くの時間がかかる。さて、あなたは注射が失敗したか成功したか?その真実を極限まで追求する勇気があるか?が大問題である。
勇気は行動と責任を伴う。注射が失敗していることを徹底調査すれば、患者に謝罪する義務、再度注射を行う責任、失敗をフォローする責任が発生する。これを発生させる勇気がある医者を私はかつて一度も見たことがない。腕の立つ医者も、教授も、専門家も、こういう勇気を持って仕事をしている医者を見たことも聞いたこともない。注射が適所に入っていないかもしれないという疑問を持ったとしても「いや、大丈夫だ」と自分にいいきかせて知らん顔をするのが普通だ。
もちろん、スーパーな医者になりたいのならここを避けてはいけない。失敗したら何度でも成功するまでやり直し、そのためになら土下座でもして患者に許しを乞う勇気を出してほしい。それができなければ成功率も治療実績も上がらない。これをするには注射の腕だけではなく注射の速さも磨かなければならない。ちんたらしていたのなら、やり直しをしている時点で外来が鬼のように混雑してくる。
そして…注射が痛いなら患者が治療を拒否する。だからせっかく勇気を出して自分の注射ミスを告白したとしても、患者に不信感だけ持たれてさよならされる。頭を下げるだけでなく評判も落とされていいことは一つもない。一つもないからこそ、先ほど「こういう勇気を持って仕事をしている医者を見たことも聞いたこともない」と述べたのだ。
注射の腕がないのに注射ミスは認められないのである。注射の腕が達人級に上手になっているからこそミスに対して責任をとれる。さらに言えば、ミスがめったにないからミスした患者のフォローができる。
私は初めて先輩から腰部硬膜外ブロックの手技を習った時点から、現在までの失敗率を記憶に残している。習った当初、5人に1人は必ずタップした。医者5年目でさえ10人に1人はタップした。現在5000人に注射しても1人もタップしない。しかも難易度の高い変形脊椎に注射してもタップミスをしない(ちなみにペイン科のベテラン医師でも数百回に1回はタップする)。
そんな私が膝関節内注射では20人に1人くらいの割合で注射ミスを今でもする。下手だからではない。難易度の高い患者にばかり注射をするせいである。普通はミスしたことにも気付かない。というのも私はミス注射を調べる手法も開発した。だからミスとわかるのであって、そういう手技を身に着けていなければミスしたこともわからない。
ミスとわかれば再度行う。注射の腕がかなり上がっているのに、ミス注射を患者に謝罪する姿は滑稽でもある。まさか患者に「おたくの膝が入りにくいのが悪いんですよ」ともいえない。こうした勇気が治療成績を格段に上げている。だから私の治療は他の医者と手技は変わらないがその治療実績に大差がつく。もちろん痛くない注射が根本にある。

各種ブロック注射のハードル

肩こりを治せる医者は世界にいない。だが真実は違う。頚部硬膜外ブロック、または頚部神経根ブロックを行えばがんこな肩こりも完治させることができることをペイン科の医者なら誰もが知っているし、実際に治療は行われている。だが一歩間違えば意識が消失し呼吸もしなくなるようなリスクの高いブロックを、いかに安全にできようが患者に安易にすすめてはならない。それは医の倫理である。
頚部硬膜外ブロックは、やってみると案外手技がたやすく、保険点数も高いのでリスクを説明せずに患者に軽い気持ちでやってしまうペインの医者がいるがそれには賛成しかねる。まあ、つまり注射治療には失敗というリスクがつきまとうわけで、そのリスク、痛み、恐怖、責任というマイナス面と症状が治癒する価値の高さというプラス面のシーソーにより、注射を行うか行わないかが決まる。
頚部硬膜外ブロックのリスクというマイナス面は、肩こりを治すというプラス面よりもはるかに大きいため治療がカジュアル行われることはまずあり得ない。だからこそ肩こりを治せる医者が世界にいない…となるわけである。もしもマイナス面を極端に減らすことが出来るのなら、肩こりは治せる。この原理は全てに言える。腰痛も膝の痛みも効果が絶大な治療は存在するが、その治療のマイナス面を縮小させることができないから治療ができない。よって不治の病になるという図式がある。
逆に言えば、マイナス面を縮小できれば様々な不治の病を魔法のように治していくことができる。私は過活動性膀胱も完治させることができると述べた。過活動性膀胱は痛みもなく、それほど苦痛もなく日常を送れる疾患である。腰(仙骨)部硬膜外ブロックを何度か行えばほとんどの過活動性膀胱患者が症状軽快または完治するが、それは教科書的には知られていないし実行も難しい。なぜなら腰部硬膜外ブロックのリスクや注射への恐怖が症状を治癒させるメリットよりも大きいからである。治療のシーソーは注射拒否に傾く。だから多くの治療実績を積んでいないと患者にすすめる勇気も出せない。
何度も言うがマイナス面を縮小させないと実用性に乏しい。さて、そのマイナス面であるが、患者にとってもっとも大きなマイナス面は注射が痛いという恐怖である。医者が考えればタップや血腫、感染などの方が恐ろしいが、患者は「痛いか痛くないか?」が鍵となる。特に「痛くない症状」を注射で治すのなら「痛くない注射」が必須条件となる。「痛くない注射」ができれば医者としてもかなり自信を持って患者に注射をすすめることができる。そして大勢を救うことができる。
本来はタップをしない、ミスをしない、デリケートな手技を身につけることがマイナス面の縮小になるが、患者はそういったことは理解できない。痛いか痛くないか?で全てが決まると言っていい。

患者は医者を信じていない

最近の患者はインターネット普及の悪影響により、医者に対する不信感を誇大にふくらませていると考えて間違いない。「硬膜外ブロックをしましょうか」というと「すごく痛いって聞きますけど」と返事が返ってくる。「私の注射は痛くありませんよ」と言っても患者はまず信じない。さらに患者はブロック注射で完治すると信じていない。どうせ一時しのぎのごまかしとしか思っていない。
さて、そんな医者不信の患者には注射治療をしない! それが医者の常識である。が、私は誓って言う。そういう非常識な患者を治療できる腕こそが一流なのである。不信に満ちた患者に注射をすすめると様々なやっかいを引き受けることになる可能性が高い。そういった医者側のリスクを背負って治療をするから毎回真剣勝負になる。だから腕が上がる→だから不信の患者にもすすめられるようになる…を繰り返して実績が積まれていく。
キリスト教では「信じる者は救われる」であるが、スーパーホームドクターは「信じない者さえも救える」と言える。私は患者から信じられないことに怒ることはない。自分の注射の腕が高いことを宣伝もしない。だから初対面の患者は私を信じる材料がない。だがその初対面から注射をすすめている。だから崖っぷちなのだ。
崖っぷちはいい眺めだ。緊張感に満ち溢れ、自分の腕が毎日上がっているのを実感できる。逆に言うと、崖っぷちが欲しいために「専門外来」を名乗らない。初対面で私を信用じようとする患者が集まれば、私は天狗になってしまう。修行中の身である私がそれをやってしまえば医者修行が終わり成長が止まる。腕を上げたいのなら楽な道を選んではいけない。名もなく信じられていない医者ほど成長の機会が増える。

おわりに

痛くない注射は訓練すれば一般内科、一般外科の医者にも十分にできるようになる。患者に「痛いという苦痛」を与えないですむことがわかれば、注射のミスも恐れずにすむ。すると注射をすることへの自分の心の中のハードルが低下していくことを実感できるようになる。私は常に難易度が最高レベルの注射ばかりに挑む。へバーデン結節も注射で治し、顎関節症も治す。頸椎の椎間関節もブロックし、おまけに最近ではインポテンツ治療まで試みている。
難しい注射の保険点数が高いわけではない。対労力を考えると難しい注射ほどコストパフォーマンスが悪い。しかも私だけができる特殊な注射は保険適用に掲載されていない。よってまことに理不尽な注射となる。だがこう考えている。理不尽でコストパフォーマンスが悪い注射ほど、他の医者はやらないしできない。ならばそこを追究すれば一流になれるのだと。そして多くの不治の患者を救える。痛くない注射はそういった全ての治療の最初の第一歩なのである。

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