腰痛に対する安静療法の概念

はじめに

腰痛、坐骨神経痛などを安静にして治すという概念が、現医学にほとんどないことをとても残念に思う。体を動かしながら治せるのであれば、労働者が腰痛を訴えて会社を休むことはそもそもないだろう。どんな痛みも安静にすることが治療の基本であることを再度見直し、横になっているとただちに廃用性症候群になるというような間違った知識を正していく必要があると感じる。ここではそもそも安静がなぜ必要か? どのように安静を守るのか?について具体的に考えていきたいと思う。

 炎症と持続する痛みの仕組み

痛みを感じるには電気信号が生成される必要がある。電気信号を継続的に生成させるにはスイッチと発電機とスイッチが切れないようにする装置が必要となる。これらの装置が働くことで「痛みが長く継続する」状態が確保される。神経に針を刺しても、皮膚や筋肉に針を刺しても、痛みは一瞬しか持続しない。
ところが、人間にとって組織が損傷したままで動くとさらに組織が壊れて致命傷となる。したがって損傷した組織が「損傷個所を動かさなくする信号」を修復が完了するまで脳に送り続けようとする。それが痛み信号である。痛み信号を発しているにもかかわらず、主がこれを無視し続けると、神経が痛み信号をもっと長時間送り続けようと画策し、通常の痛み回路とは別の回路を作り出す。この「別の回路」が慢性疼痛の基本原理と推測している。
痛みの信号は組織が修復されるまで持続しなければ意味がない。一瞬の痛みだけなら人間は再び損傷部位を動かしてしまう。脳は全ての組織を動かす司令塔の役割をしているが、体中の組織もまた痛み信号を利用して脳を奴隷にしている。つまり痛みのないような行動をとらせるために、脳にとって耐えがたい電気信号を送って操っている。それが痛みの本質であり真実である。
損傷した(壊れた)組織にとって重要なことは、修復が終わるまで人間の脳に痛み信号をずっと送り続けることであり、そのために炎症というやっかいごとを発生させる。損傷した部分が脹れて炎症を起こすのは、痛み信号を長期間持続させるための優れた方法である。そして脹れた部分から出血が起こらないようにするために細胞外液の圧力を高めるという防御策としての役割も同時に担う。
組織が脹れると毛細血管まで圧迫してしまい、その結果、血行不良をおこし、修復の速度が落ちるが、それでも組織は究極の選択をする。血行不良にしてでも出血を防ぎ、血行不良にしてでも痛み信号を脳に送り続けて「損傷した部分を動かさせない」方を選択させようとする。その選択が、人の生存率を上げることに有利であったからに違いない。
痛みのスイッチとなる化学物質は数々見つかっているが、なぜそれほどたくさんの種類があるのか?の理由はわかっていない。が、あらゆる手段で痛みを脳に伝えようとしていることだけは理解できる。痛みの電気信号を脳に送り続けるために炎症物質は活躍し、脹れのおかげで炎症物質は洗い流されずにその場にとどまり、脳に対して「動かすな!」の信号を送り続けることができる。
いや正確には、送り続けるというよりも、炎症性物質(疼痛メディエーター)が神経節部(脊髄後角など)に電気信号のポイント切り替えを命ずることで慢性持続性疼痛が完成する。例えば湿度や温度を感知するセンサーから送られてくる電気信号を、疼痛伝達回路に切り替えてやることで、本人は「湿度や気温が変わるたびに」激しい痛みに襲われるようになる。こうした、錯誤的ポイント切り替えを命じるのが疼痛メディエーター(炎症から生まれた産物)であり、切り替えが起こる場所は神経節部である。神経が損傷を起こした場合、疼痛メディエーターが神経節まで運ばれ、その部分を感作させることが最近判明した。
電気信号を作り続けるには燃料が必要だが、燃料は損傷した組織では十分には作れない。損傷部位は血行が悪いので血液の中の燃料(糖)を燃やせないからだ。よって損傷していない健全な組織が作り出す電気信号を利用し、これを疼痛回路に流し込んでやれば、慢性持続性の疼痛が完成する。脊髄後角だけでなく、後根神経節もこうしたポイント切り替えを行えると思われる。つまり、神経と神経のコネクション部分(神経節)はポイント切り替えを行う場所なのだ。
痛みのスイッチは過敏でなければ意味がない。少々の動きでは痛みスイッチが作動しないなんてことが起こると、脳は「痛くない範囲で動かす」という戦略をとってしまう。そうさせないためにスイッチはわずかな振動、温度変化、湿度変化、感情の変化ででも作動するようになっている。そして、皮肉にも、こうした痛みは無慈悲かつ懲罰的であり、おそらくそういった過敏性を執拗に作り出すために、炎症性化学物質が何種類も存在している。
雨が降ると痛い、気分を害すと痛いなどが起こるのはそういった過敏性のせいである(これを精神異常と呼んではいけない)。この過敏性を作り出すのは交感神経との連係プレーである。
交感神経とは文字通り感情と交わる神経。つまり感情の起伏で痛みが強弱される。つまり、感情により血圧や体温、発汗に変化が起こる。その変化を伝達する遠心性の信号が疼痛信号に切り替えられることもある。感情の高ぶりと共に苦痛を感じ、ますます交感神経が興奮する→痛みが増す、という悪循環を繰り返し痛みがどんどん増強する。これは正常な反応であり、感情に伴う痛みの増幅を「精神異常」と呼ぶことに私は同意しない(一般的には精神障害と診断されてしまう)。損傷した組織はそこまで徹底して脳に「動かすな!」という痛み信号を必死に送っている。

動かさないことが組織修復に必須

  なぜこうまでして損傷した組織が脳に「激しく持続する、感情や気候とも連動する、痛み信号」を脳に送り続ける必要があるのか? それを考えることは難しくない。「損傷部位は動かさない方が修復される」以外に理由はない。少なくとも私たちの遺伝子にはそのように仕組まれている。
もう一度言う。  
  • 「動かさない方が修復される」
  そしてもう一つ言う。動かさないでいると筋肉が細り、体力も低下する。そのデメリットよりも修復のメリットの方が大きい時、組織は持続する痛み信号を脳に送る。ただし「寝たきりになりなさい」という意味ではない。筋肉には筋ポンプ作用といって、筋肉を伸縮させることが血液の循環ポンプになっており、動かした方が局所の循環が良くなる。よって、最小限の運動は必要となる。また、臥床時もごろごろと絶えず寝返りを打つ必要もある。重力を1か所に集中させないためである。この「筋ポンプ作用」と「重力分散」に配慮した上での安静が必要である。
昨今、運動しながら治療する方法が大流行しているが、それはある程度組織の修復が済んでいる状態でのみ有効であり、損傷の程度が大きい時に運動療法をするのは愚である。いや、愚とは言わないがギャンブルである。良くなることもあるが悪化することもある。世間では「動かすことで悪化する可能性」があることを患者に知らせることはほとんどない。が、実際には運動療法で痛みが悪化することがしばしばある。医師たちはその真実から目を背けていると感じる。
さて、ここまで組織が必死になって痛み信号を作り出し、脳に「動くな」と命令しているのに、その命令を無視して動かせば、組織はさらなるペナルティを脳に送るしか仕方がなくなる。慢性の痛みとは組織が作り出す脳への消えないペナルティ回路のことを意味する。そこへはまりこませるような運動療法は患者を慢性疼痛地獄に突き落としてしまう。運動がダメなのではなく、運動の時期が問題であること。そして急性期は痛みが来ないような最小限の運動に留めることが必要である。こうした、基本的な痛みの概念を考えずに、一様に運動運動と指導することに私は同意しない。

動かすか?動かさないか?どちらがいい?

 
  • 動かすと悪いこと:炎症が悪化、組織が浮腫、血行障害→修復が遅れる
  • 動かすといいこと:筋ポンプ作用で血行改善→修復が早まる
  この二つは矛盾している。動かすと血行障害が起こる、血行改善が起こるという二つの結果が出ることが矛盾している。運動療法には、「適度」が重要になる。この「適度」が素人にはなかなか理解できない。つまり運動療法は悪化もするし改善もする。博打性が高い。ギャンブル好きな人は運動療法を好む。しかし、ギャンブルは負けることも多々ある。

認知行動療法という暴挙

  慢性の疼痛はブロックをしてもなかなか治らないが、治らない=脳が幻の痛みを感じ取っている=精神疾患、とする傾向が、医師の間で常識化している。そういう単純な決めつけを行うことに私は違和感を覚える。
精神疾患とはつまり、たいへん大雑把に説明すると、自己催眠的に痛いという暗示をかけていることを意味し、これを治すには認知行動療法を通して、脳に「行動しても痛くない」という新たな刷り込みが必要と考えている医師がいる。誤った認識・陥りがちな思考パターンの癖を、客観的でよりよい方向へと修正するのが認知行動療法であるが、この療法はすでに「患者が触覚や振動覚を痛覚であると間違って思考している」という精神異常があることを大前提としているところがそもそも誤りである。なぜなら、中枢感作が起こっていると、思考レベルではなく、脊髄レベルで触覚や振動覚を痛覚へと変換してしまうからである。脊髄は精神ではない! これを「思考のせいである」と断定するのが現医療の間違いである。
痛みの錯誤の原因が精神にあると決めつけのが現医学の習わしであるが、そう診断する根拠はない。敢えて言うならば、根拠は「現医学で痛みの原因がはっきりしない」ことであり、「はっきりしないもの」は「精神から来るということさえはっきりしない」わけである。それを精神疾患であると断定することは診断学の暴挙である。この暴挙が許される背景は、画像所見や他覚的所見がないというところのみである。しかしこれは暴挙である。現医学で画像所見や他覚的所見がなくても、100年後の医学では所見を見いだせる可能性が極めて高いからである。現医学で所見なし→精神がおかしい というのは限りなく定義の暴力に近い。
「精神がおかしい」と結論付けたうえで、精神科薬や認知行動療法で痛みを治せるというのなら、この定義を暴力と言わないであげよう。もちろん、慢性疼痛が抗うつ薬などで改善するケースがあることも知らないわけではない。しかし、多くは認知行動療法が効かない。効くというエビデンスをどんな偉大な教授が示したとしても私はそれを信じないし同意もしない。精神科薬漬けにすればどんな痛みでも多少は弱まるのだから。慢性の疼痛患者の多くはこの手の誤診から、行動療法→さらなる疼痛、となる。痛みが酷くて入院する際は、整形外科ではなく精神科である。これを正しいと考えている現医療をなるべく早く改善させなければならないと心の底から思っている。精神科薬が効いて治療へと導けるなら問題ないが、効かないことが多く、薬を止めた途端に痛みが増加するのだから…。

痛みの信号を消し去るという暴挙

  患者は理由も知らずにただただ痛みを取り除いてほしいと医者に命ずる。最近は患者は病院をコンビニエンスストアだと思い、医者に対して「お金を払ってるんだから、言われた通りに痛みを取り除きなさいよ」という態度で臨む。いや、病院はコンビニではない。現にお金は患者からもらっているのはほんの一部で、大部分は公的機関(社会保険)が支払ってくれる。
痛みを取り除けば、何も考えずに平気で「動かして仕事に出かけてしまう患者」に対しては「痛み信号をわざと取り除かない」という選択肢もある。仕事を休ませなければならないからである。休ませると退職に追い込まれることもある。しかし、続ければ最終的に体を壊し、休むだけでは済まなくなる。ならば、患者に嫌われてでも休むことを命じなければならない。
そういう意味で医療はサービス業ではない。どちらかというと患者を教育する教育機関的と私は考える。だから医師は先生と呼ばれる(先生と呼ぶにふさわしくない商業的医師が多数存在することを残念に思うが)。
我々医師は薬や注射で安易に痛みを取り除き過ぎている。これは損傷した組織にとっては迷惑な話である。迷惑どころではない。損傷しているのが神経や脊髄であったなら、患者から痛みを取り除くことで致命傷を作ることになる。ちなみに、私はブロック注射を行っているが、これは痛みをとるためではなく、神経根の血行改善のために行っている。もちろん痛みもとれるので、患者は安静を保持しない。そのジレンマで私は常に悩んでいる。私のブロック治療が最終的に患者の脊椎を悪化に導いているのではないかという懸念がある。しかし、人間は健康や長生きを目的に生きているのではなく、自分の生きがいを見つけ、自尊心を満たすために生きている。そのためには、痛みを取り除くことを優先させるのも悪くない。
安静にすることは人間にとってあらゆる治療に勝る最高の治療である。このことに異論を唱える医学者がいるとしたらそれは人間の傲慢であろう。痛みを軽くさせても自分で行動を制限できる賢い患者なら痛みを取り除いてあげても差し支えないだろう。しかし、痛みを取り除けばすぐに全力で仕事をし、どんどん組織を損傷させて取り返しがつかなくなるまで動いてしまう愚かな患者の場合、医の倫理にかけてその患者から安易に痛みを取り除かず、安静を指示しなければいけないこともる。ここが医者がサービス業ではないとされるところであろう。こう書くと医者の傲慢と思われるが、そう結論を出すのはまだ早い。以下の文章も読んでからにしてほしい。

痛みを取り除かないという選択肢

  我々医者はできる限り、日常生活を普通にしながらでも痛みを取り除いてあげるということをして差し上げるべきだ。ただし、それは動いていても治っていくという前提がある場合に限られる。動かないこと、安静にすることは人間にとって最大の苦痛であり、安静を命ずるのは最後の最後の手段でなければならない。
つまり、ありとあらゆる世界中に存在する痛みを取り除く方法で加療し、しかしそれでもどうしても悪化の道をたどってしまう、または改善することなく現状が続く場合にのみ最後に安静を指示する。よってありとあらゆる除痛の治療を尽くさない医者が患者に安静を命令してはいけない(←これが最重要なのだ)。誓って言うが、一般に医療をしている医者の大部分は痛みに対して八方手を尽くさない。よってほとんどの医者には患者に安静を命ずる資格がない。
痛み治療に全力を尽くせない医者が安静を患者に命令することは癇癪(かんしゃく)でしかないと心得るべきだ。どうせ患者にも理解されない。だから、真実を辛辣に言うと、ほとんどの医師は患者に安静を指示する資格がないし(慢性腰痛の場合)、実際に安静を指示する医師もいないと来ている。だからそれでいい。
    さて、ありとあらゆる治療、投薬量の増量、難易度の高いブロック注射、短い間隔での治療などなどやりつくしてもダメな場合に安静を指示する。いわゆるブロック無効の慢性腰痛と診断した場合にのみである。
私は、年々、疼痛治療の技術が向上し「治せない疼痛患者」と遭遇する確率が減ってきている(ほとんど治せる)。よって安静指導をすることはほとんどなくなっている。私にとっても安静指導をするのは特例中の特例である。しかし、特例を発令しても安静を守らない患者が存在する。こうなると外来をストップしてでもその患者に説教タイムとなる。私は患者に嫌われることを全く気にしない。口論になっても全く動じない。その患者が怒って私にクレームをつけようと構わない。安静が治療の上でどうしても必要な場合にのみ徹底的に患者を説教する。
その結果私を毛嫌いし、私の元を去っていくなら…それでもいいのだ。どうせ、周りの病院にかかったところで、私以上に痛みを取り除ける医者はまずいない。つまり、私を去れば今よりも痛みをひきずることを意味する。これで患者は痛みの奴隷となり、安静せざるをえなくなるからだ。

脊椎の病気は特に安静が重要

  動けば悪化し、安静しか治療法がないという病気は脊椎疾患以外にほとんどない。脊椎は運動の根幹部であるから、ここが損傷すれば過激な痛み信号が脳に送られ続ける。神経ブロックなどなかった時代は、脊椎系の病気の治療は全て安静以外に方法がなかった。
脊椎は基本的に動かしながら治す場所ではない。神経は運動を伝えるパイプラインであり、神経が損傷しているのに動いて治すというのは常識外れだ。神経が炎症を起こして痛みが来ていると言うのに「痛いのは歩いて治しなさい」と指示する医者が多すぎることに真剣に困っている。まあ、神経の炎症は見えるものではなく、これを察知することは多くの医師に不可能であるからしかたないが。
はっきり言うが多くの患者も医者も腰の痛みと仙骨部の痛みを区別できない。つまり純粋な腰痛と仙骨部に響く神経痛の区別ができない。最近では純粋に腰痛と思われていた症状の中にも神経根由来のものがあるとも言われているが、頭の古い整形外科医はいまだに仙骨部の痛みを腰痛の関連痛だと思っている。だから歩いて治せという意見になるのだろう。だが、実際は仙骨部の痛みのほとんどは坐骨神経痛の一部である(ブロックで即座に完治させることの経験を積めばそれが理解できるようになる)。神経痛(神経の炎症)だから歩いてもらっては困るのだ。
脊椎の病気で化膿性脊椎(椎間板)炎というものがあるが、この病気は安静にしている以外に治療法がないことで有名である。抗生剤が椎間板まで届きにくいからだ。それよりも何よりも動くことは炎症を広げることであるという認識を、この病気では医者ならば誰もが普通に知っている。
これが意味することは「医療の小細工が届かない場所の炎症は安静しか治療法がない」ということである。化膿性脊椎(椎間板)炎では、腰痛を歩いて治すことを推進する医者でさえ、絶対安静派に回るのである。
神経根の炎症では、軽度なら経口薬は通用するが、慢性化したものや激しい痛みを生じるものには全く通用しない。つまり医療の小細工が通用しない。このような場所の炎症を治療するには「歩いて治す」「仕事しながら治す」という軽薄なことを言っている場合ではない。もちろん、可能な限りブロックを用いて、「仕事しながらでも治る」ようにして差し上げるが、それではどうしても症状悪化を食い止められないと感じた時は、仕事を休ませることを指示すべきである。ただ、誤解しないでほしい。そうは言っても、私は「安静指示」をほとんど出さない。大部分の患者を、仕事をしながらでも改善させる特別な技術を持っているからである。

安静を指示する鬼になる

  患者に安静を指示するのは治療のうちの最後の手段である。なぜなら、患者は注射より手術よりなによりも安静を嫌がるからだ。手術のストレスよりも安静のストレスの方が大きい。神経痛の患者に安静を指示しても、守る患者はほとんどいない。命令しても必ず無視する。それほど人間は安静にしていることができない生き物のようである。
私は、ブロック注射を週に2回行い、それを数カ月連続で行っても症状が軽快しない神経痛の患者にのみ安静を命じている。軽快しない理由も決まっている。動き過ぎなのだ。もちろん、神経痛を治したいと本気で思っている患者にのみ安静を命じる。治すことに真剣でない患者には安静を守る強い意志などあるはずもない。安静にするには人としての強い精神力が必要であり、並みの人にはできるわけがないことを最初から知っておく。だから安静は最終兵器であるべきなのだ。
だが、安静を命じて、それを守った患者はことごとく症状が改善する。そのデータは別に示してある。安静の威力は想像以上に大きいということを付け加えておく。手術しなければ治らないとされる激しい神経痛の患者も、安静を守らせればかなり軽快する。
特に腰椎圧迫骨折の患者は医者と口論をし劣悪な関係になることを知っておこう。動けば痛いの典型だからだ。そして痛みに対しての治療法なしの典型だからだ。骨折は、骨折部を動かさなければ痛みがない。動かせば痛い。安静しか治療法がない。だのに患者はトイレに食事に着替えに風呂に起きて動こうとする。そのたびに痛みという激しい罰が下される。そして動いた方が治りも遅く、脊椎の変形(後遺症)がひどくなる。
安静は医者が下さなくとも体から発せられる絶対命令であり、従うしかない。にもかかわらず「動いても痛くないようにしろ」と医者にあり得ない魔法を要求する。つまり医者と患者の信頼関係は腰椎圧迫骨折をした時点で悪化することが必至なのである。「安静しかない」といっても患者は怒り、「安静していれば1カ月半で必ず治る」と言っても信じないし、「安静とはトイレにも行かずおむつにおしっこすることですよ」と言っても守る患者はいないし、入院させてくれる病院も少ないから紹介もできない。
このように腰椎の圧迫骨折では、患者はどうあがいても安静という拷問から逃れることはできない。そして「拷問を受けるしかないんだ」と真実を言う医者は患者にたいそう嫌われて信頼関係が崩れさる。しかしそれを恐れるな! 医者は美容師ではないのだから、嫌われることを避けるな!といいたい。安静を指示する場合、医者は鬼にならなければならない。

1週間安静臥床で廃用性症候群?

  安静は最強の治療武器であるが、副作用ももちろん大きい。全身の筋肉が衰える。マスコミの影響で患者は過剰にベッドで安静にすることに多大な恐怖を抱くようになってしまった。整形外科医は外科医であり内科医ではないので、「安静にしていると廃用性症候群になるので手術で治します」という自分たちの都合のいい考え方に意見を偏らせる。だから1週間安静臥床にしていると廃用性症候群になるという文献を整形外科医が書いていたとしても、はいそうですかと易々と信じるわけにはいかない。
廃用性症候群はあったとしても一時的なものであり、痛みが治れば、その後にほぼ必ず回復する。だから1週間寝たきりをしても生命にそれほど影響がない。影響がある場合は、脊椎とベッドが不適合の場合である。患者の苦痛に耳を傾け、それにきちんと対処していれば問題が生じない。それをしないから問題が起こる。
寝具が背骨と適合していない場合、臥床が背骨を悪化させる。よって、横になることで痛みが増強する。このような場合は安静療法があだになる。そして私のいう「臥床安静」とは仰臥位でじっとしていることを言うのではなく、横になってしきりに寝がえりを打って、体を動かしながら臥床することを意味している。寝返りが打てない患者は臥床で痛みが悪化する。よってこのことを患者に理解させ、指導した上でしか、安静療法は成立しない。だから難しい。寝具の不適合は高齢者では死活問題である。死活問題なのだがその自覚がある患者はめったにいない。私がムアツマットなどを勧めても、なかなか聞く耳を持ってくれない。

肺炎で1カ月入院し、退院時は車イス

  整形外来に車イスで訪れる患者が時々いる。医者は車イスの患者には治療意欲を沸かせないことを知っている。なぜなら車イス=何をやっても無駄、であると認識するからだ。だから、車イス患者に「どうして車イスになったのですか?」と質問する医師は皆無に等しい。私は車イスになった患者でもある程度治せるという特殊技術を持っているので患者になぜ車イス生活になったのかを質問する。すると「肺炎で1カ月入院したら足腰が立たなくなった」と言う話である。
さて、さらっとそうは言っても、これが若い人に同じことが起こったら訴訟問題であり大問題である。入院中、肺炎の治療に医師たちは気をとられ、患者の脊椎に異変が起こっていたことを見事に無視していたからだ。患者が「腰が痛い」と訴えても、痛み止めしか出さない。このせいで、この患者は一生車イス生活になった。この患者に「治療すれば歩けるようになるかもしれませんよ」と私はブロック治療を受けることを勧めたが、患者は私の言葉を信じることはなく、見事に「治療の申し出」を断られた。
脊椎に高度な変形を持つ高齢者は、病院の固いベッドの上に長期間臥床にさせられていると、されだけで脊椎内に血行不良が起こりやすく、馬尾神経は血行不良が原因で不具合が生じ、退院時は寝たきりになってしまうことがしばしばある。しばしばあるがそれは医療過誤としては認識されず、長期臥床で体力が低下して寝たきりというような医師に都合のよい解釈で無視されてしまう。
だが、寝たきりになってしまった本人と、患者を一生介護する家族にとって、寝たきりにされた事実はあまりにも重い。歩行が車イスなるのだから。こういう寝たきり例は体力低下が原因ではなく、脊椎の無理な体勢を長期間してきたせいだという因果関係があるが、医療側はそれを絶対に認めることはなく、今後も同様な患者は増え続ける運命にある。
これを防ぐには、入院中、患者の「腰が重い」という訴えを無視せず、入院中に定期的に硬膜外ブロックなどをする必要がある。寝具を変えるという意見もあるが、寝具の医療知識はエビデンスがほとんどなく、まだまだ研究されていない(私が今後研究する)。私がこの患者の病院に勤務していれば彼女の寝たきりは防ぐことができた。高齢者の寝たきりに関する知識は、医師もまだまだ知らない。悲惨である。
    さて、ここでもう一つ付け加えておくことは、安静とはいうものの、その体勢が悪ければ逆に悪化する。つまり、背骨に悪い体勢で寝ていると寝たきりになる。背骨にとってよい姿勢をキープできれば、臥床安静で腰痛は必ず改善する。ここが難しいところである。

安静の定義は非常に難しいと心得る

  「あなたは動き過ぎているので痛みが治らないんです」と患者に言うとほぼ必ずムッとされる。「私はほとんど動いていません」と怒った口調になって帰ってくる。違うのだ。「動き過ぎているか?いないのか?」のジャッジは患者の脳がしているから間違う。体の中で動き過ぎかそうでないかのジャッジは神経が行っているのである。脳のジャッジが間違っているから神経が痛み信号というペナルティを与えている。つまり痛みがあるという時点で患者がどう生活をしていようとも「その動き(姿勢)は体を悪化させる」というジャッジを神経が、脊髄が下しているのである。
よって患者が「痛み」を訴える時点で「私はほとんど動いていません」という言い訳は全く通用しない。さて、その真実を患者に伝えると…もちろん口論になり外来で言い争いが始まる。患者は医者に「私をばかにしないで!」という顔をする。顔だけならよいが「口のきき方ってものがあるでしょう!怒鳴らないでください!あなたは人間失格です!」とまで言ってくる患者もいる。
真実は相手の心をえぐる。だから本当に相手のことを考えるなら口論は避けられない場合もあることを肝に銘じておき覚悟しておく。これを覚悟しないと安静という治療は前に進まない。嫌われることは医者の勲章と考える(ただ、完全に嫌われると患者を指導できなくなるのでほどほどに)。
  • さて以下に実話を紹介する。76歳女性
 
  • 「先生、この前とその前と2回注射してもらったんですが、効かないんです。それどころか注射したところが痛くなりました」
  • 「効かないって?注射当日も効きませんでした?」
  • 「いや、当日と次の日は効いてましたが、それ以降ダメです」
  • 「注射が効かないのは安静をしていないからだと思いますよ」
  • 「そんなことはありません。私はこの2週間、今までの人生にないくらいに安静にしていました。誓って本当に何もしていないんです。でも痛みが全然よくならないんですよ」
  • 「そうですか…これだけブロック注射をしてさらに安静をしてもよくならないんですか…なぜでしょう?本当に私にもわかりません。安静をしていて治らないということは基本的にはないんですが…ただ、私はあなたを一日中監視しているわけにはいかないのであなたのおっしゃる安静ってものが、本当の安静ではないってことも考えられますけど…」
  • 「いいえ、本当にこれまでにない安静をしていました。フィットネスもやめましたし、家には直行で帰るようにしました。」
  • 「えっ?直行で帰るって…まさかどこかにでかけているんですか?」
  • 「はい、仕事に行ってます。立ち仕事ですけど。それでもできるだけ腰を曲げないように心がけました。何せ曲げるたびにお尻が突っ張るんです。」
  • 「あのう…まさかあなたが言う安静って毎日仕事にでかけることなんですか?」
  • 「はい、仕事に出かけますが寄り道はしていません」
  • 「よりみちをしないことを安静だと考えているんですか?」
  • 「この2週間はきっちり安静に…」
  • 「すいません、安静という文字を辞書で調べてきてください。申し訳ありませんが、もしもこの状況を改善したいのなら、私の言うことも少しは聞いてください。今後は週に2回来院し、状況を報告していただけますか? 私は何も安静にしていなければ治療をしないと言っているわけではありません。働いてらっしゃるなら働いていると、つまり安静を守っていないと本当のことを言っていただかないと治療にならないんです。これまでの人生にないくらい安静にしているとあなたがおっしゃるから、私は真剣に悩んでいたんです。 安静にできないならなできないで、それを考慮に入れた強い治療をしなければならないでしょう?」
   
安静の定義は個人の常識の中にある。毎日通勤し仕事をフルタイムでこなすことを安静だと考えているような常識外れな患者はまた人格障害もともなっている。人格が言葉の意味を強く歪めて着想させてしまうからだ。ただ、覚えておかなければならないことは、安静にしているかしていないか?のジャッジは常識が決めるのではなく、その患者の神経がジャッジをしているということ。つまり安静の定義は絶対的な尺度がなく、人それぞれである。この真実を医者がしっかりと考え、個々の患者に応じた安静度の設定をすることが望ましい。

まとめ:

腰痛(脊椎が由来の痛み)には安静が強力な治療武器となりうる。しかし、臥床には寝具と脊椎の適・不敵があり、不敵な寝具で臥床すると悪化する。よって、適切な寝具指導とベッド上の寝がえり運動などを指導しながらの安静が必要であり、こうした指導は簡単ではない(要研究)。しかしながら、基本的に安静は多くの場合功を奏す。ただし、安静は患者の社会的地位を低下せしめるため、指導は極力しないことに務め、あくまで最終手段と心得るべきである。
近年、神経ブロックが無効の慢性腰痛患者を精神疾患だとする風潮が強く、これを認知行動療法で悪化させるパターンを散見する。現医学で理解不能な慢性腰痛を精神疾患と診断する現医療の常識に、強烈な違和感を覚える。  

腰痛に対する安静療法の概念」への2件のフィードバック

  1. 45才男性です。約4年前に化膿性脊椎炎で緊急入院をして、生検と菌の洗浄を施しました。生検しましたが、菌が既に死滅して具体的な菌の判明ができませんでした。
    また、前々から腰や右鼠径部に痛みがあり、ブロック注射を緊急入院先でしてました。
    しかしいっこうに改善されないため、親戚の紹介で並行しながら診察してました病院があり、緊急入院する数日前に急な激痛が腰に発したので、親戚から紹介された医師に診察していただき、飼い犬からの何かしらの菌が入り痛みがあります。抗生剤を出しておくので二三日で痛みが治まるでしょう。と、言われました。

    その抗生剤が原因かは不明ですが、激痛はいっこうに改善せず、緊急入院となりMRIからも私達素人がみてもわかるような黒い影が脊椎や椎間板のあちこち(特にl5)に写ってました。そして残念な生検の結果となりました。入院期間は約2ヶ月で、術後に抗生剤の点滴を一週弱し、コルセットもなく、リハビリを前向きに開始し、ある程度の日常生活も一人で出来るようになった旨、退院し勤務再開しました。

    ところが数ヶ月後の出勤途中の電車に座っていたところ、また、痛みが再発しました。以前の緊急入院先病院で診察しましたが血液検査結果も異常がなく、経過入院することになりました。また、リハビリを開始し、ある程度日常生活出来るようなり、退院。痛みは軽減されたので、勤務も再開しました。
    職場復帰してからはたびたび痛みが生じ、休むことがあり、上司からもハラスメントのようなアドバイス?もあり、周りの方も辟易していることが肌で感じるような状態でした。

    会社も私に対処してくれ、職場異動してくれます。しかしまた、数ヶ月前に痛みが再発し2ヶ月弱家で安静することになりました。

    未だに痛みが継続してますが、化膿性脊椎炎は完治しているのか不安です。もしくは心身共に病んでしまっているような症状でしょうか。
    このような症状の場合は、どのような対処をすればよいのでしょうか。

    分かりづらい文章ですみません。

    定期的に執刀医師の診察を2ヶ月に一度。週末にリハビリ通院を約2年継続してます。最近は漢方治療を開始し、毎日漢方薬を煎じ、痛み止薬と併用しながら鎮痛してます。
    化膿性脊椎炎

    • 腰痛の原因が化膿性脊椎炎単独であるのか、他の原因によるものか、複合なのか、が神様にしかわかりません。腰痛は、化膿性脊椎炎が全くない健全な人でさえ、痛みで仕事が続けられない人が大勢います。しかもMRIなどで何の異常も認められないのに痛みが強い人たちも大勢います。ですから、痛みの原因を「全て脊椎炎のせいである」と考えていると、その影に隠れている神経根炎、靱帯炎、関節炎などを見逃す事になります。痛みは痛み、化膿性脊椎炎は化膿性脊椎炎と、別々に考える思考が必要です。化膿性脊椎炎の治療は免疫状態を良い状態で保つ事が最善であり、そのためにもっとも重要な事は「睡眠をよくとること」または「たとえ1日でも寝不足な状態にならないこと」です。痛みには別途、ブロックなどを行うことが最善です。しかし、おそらく、細菌の拡散を恐れ、医師たちはなかなかブロックをしてくれないでしょう。細菌を拡散させないようなブロックとしては神経根ブロックなどがあげられます。また、椎間関節ブロックなども有効かもしれません。ただ、医師はそうしたやっかいごとに飛び込み責任を負うことをしないのが普通です。リスクの高い患者に何の見返りもないのに責任重大なブロックを行うことは「献身的自殺」に等しいからです。化膿性脊椎炎は再発しやすいので完治を考えないほうが無難です。完治ではなく、常に予防的に免疫を高めておくことを忘れない事です。5年後も10年後もです。痛みにどうしても悩んでいるなら、リスクを回避しながらブロックしてくれる献身的な医師をあちこち回って探すことです。ペインクリニックをさがすことをお勧めします。ただし、ブロックによる細菌の拡散のリスクは常に自分が背負うもので、それを医師の責任としないことが条件となります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です