第八十四話 屈辱

 奥様のご加持は様々な奇蹟的な治療効果を発揮しますが、中でも優秀だなあと思うのは筋肉をやわらげる力です。

 今日は原因不明の全身の痛みを訴える中年女性が来院しました。初診です。こういう患者の場合、まず奥様がご加持をします。ブロックの前に筋肉を緩めた方が効果が高いからです。

 ですが、初診の方は奥様がご加持をすることを知りませんので説明に苦労することがあります。

「私は気の担当です。全身の気の流れを診させていただきます。」というような言い回しでご加持を案内することになります。

奥様のご加持が「即効で奇蹟を起こしている」ことは前に述べた通りですが、うなだれ首で筋肉が拘縮している患者をご加持でやわらげでまっすぐな首にするという手品みたいなことを行っています。

 ちなみにうなだれ首といっても、重症な方の場合はうなだれるのではなく胸鎖乳突筋が拘縮して首が曲がったままでまっすぐに伸ばすことができない状態になります。この状態では呼吸がしにくくなり、やがては肋間筋も拘縮し、肺炎を起こして死亡する可能性が高まります。これは大学病院でも治せませんので、重症のうなだれ首は極めて予後の悪い病気へと変貌します。

 つい先日ですが重症うなだれ首の患者が受診の予約をキャンセルしてきました。その理由は案じていた通り「呼吸不全」が出現してしまい、息がしにくくなったため急遽入院になってしまったというのです。 

こういう状態が長く続くと呼吸不全を起こす恐れがある

「あ~あ、入院しちゃった。多分助からないよ。」と私は言い、奥様と顔を見合わせます。

「もう、あと一歩先にこちらにかかっていれば改善させることができたのに・・・」と。入院は明らかに愚行ですが、それを言うと患者の家族から私たちが「気が触れている」と思われてしまいます。

 私たちの治療は医学の常識をはるかに超えていますので「信じてもらえない」ことを知っています。救いの手を差し伸べても、その手を払われるどころか、「おかしなことを言っている」と悪評を立てる人もいます。

 私たちはそうした屈辱の中を生きています。治す能力があってもそれを信じてもらえない屈辱です。万一、ご加持を受けていただいて奇蹟を起こしてさしあげても、それが自然に治った、または私のブロックで治った、または偶然に治ったと思われてしまう屈辱を奥様はあびます。

 人智を超えた能力で治療して差し上げた場合、その価値は非常に高く稀少ですが、患者がそれを「信じない」ということで、高価な治療は無料扱いにされてしまいます。「信じない」とは私たちがかけた労力を「無料」にしてしまう「恩泥棒」に等しく、それは悪い言い方をすれば無銭飲食と同じです。

 奇蹟的な治療は食い逃げによってタダにされてしまい、私たちは感謝もされず心が疲弊していきます。

 私はこれまで「大学病院が治せない症状を治療する医師」としてがんばってきましたが、それは「奇蹟的な治療をしても世間から評価されない」というとても屈辱に満ちた世界でした。だから、奥様のご加持が患者に認めてもらえず、感謝もされない悔しさは私は「痛いほどわかる」のです。

 さて、話は変わって・・・

 原因不明の全身の痛みを訴える患者を奥様がご加持し、その後腰椎のレントゲンをとる際に私は患者に説明をしました。

「さきほど行ったご加持は無料ですよ」と。

こう説明した理由はキャッチバー化することを防ぐためです。

 ご加持という「患者にとって意味不明」な治療をしてしまうと「治療費をぼったくられるのではないか?」という不安を患者が抱くかもしれないと私は気遣ってしまいます。患者を安心させるために「先ほどのご加持は無料」と説明したのですが・・・

 しかし、奥様はこれを聞いていて私に対して苦言をいいます。

「信じていな人にお金をいただけないけど、無料、無料ってあまり軽々しく言わない欲しい。」と私に訴えます。

「じゃあ、何て言えばいいんだよ。無料って言ってから治療しないとキャッチバーみたいでお金がいくらかかるかわからないから患者を不安にさせるだろう!」と私は言い返しました。そして二人はとても気まずくなります。

 ご加持という「あまりにも尊い希少価値の高い治療」を「患者たちにわかってもらうこと」は私たちにとって難題でした。

正直言うと、ご加持は治すための手間暇が人によって大きな差があるので料金を一定化できません。だからといって「無料」と大声で言うことは、「価値が低いおまけのような治療である」

グリコのおまけ

と宣告しているようなものであり、この素晴らしい力を与えてくださっている神仏に対して失礼極まりありません。だから私が「ご加持は無料です」と毎回言っていれば、そのうち天罰が私に下るでしょう。

 奥様のご加持は、あまりにも高貴なものであり、たとえお金をいただかないにしても、私がご加持に対して「無料」と言い放つことは神を侮辱しているのと同じでした。

 現時点では、ご加持がどれほど尊い力を用いているかを熟知している奥様と、それを理解しない患者、その患者にこびへつらう私が、激しく対立しました。私は無銭飲食をしていく患者たちに対し、「どうせただ同然だからいいよ」と言ってにこにこしていた無礼な店長でした。

奥様は「そうした神仏に対する私の無礼さ」を怒っているのであって、奥様はご加持が「患者にどう思われているか?」はあまり気にしていませんでした。しかしそのことを私が理解できるようになるにはこの後1年を要します。

私は単純に、「奥様が怒っているのは自分の能力を患者に認めてもらっていない屈辱からだ。」と思っていました。

 なぜなら「自分のたぐいまれなる治療能力を患者に認めてもらえない」屈辱はどれほどつらいものかということを私はいやというほど思い知らされた医者だったからでした。それは「心が折れる」の一言です。

私は患者に自分の心を折られるのがあまりにもつらかったため、「折られる前に自分でへし折る」という自己虐待を長い年月行ってきました。

「患者に感謝されようと思うな!」と言い聞かせ、「ただひたすら全力で治せ!」「 患者に憎まれても治せ!」と自分をいじめたのです。

それほど「認めない、感謝しない」患者たちに対して全力で奉仕することはつらいことでした。このつらさは私のトラウマとなり、患者から受ける屈辱を「耐えようとしない奥様」に対する怒りとなってしまいました。

しかし、実際はそうではなかったのです。奥様はもともと屈辱を感じていませんでした。そうではなく【神仏を敬わない失礼さ、神仏の顔に泥を塗るような発言】に対して怒りをあらわにしていたのだと、後になってわかりました。

当時はそのことが私にはわからず、無礼な患者が来院するたびに二人は激しく言い争うのでした。成長しなければならなかったのは私だったのです。