第三十九話 予言者の元へ

 以前お話しましたが、私の診療所には伝統医療「腱引き」の師範のO先生が来ています。共に助け合い、難病治療に携わっています。そのO先生と協力関係にある霊能者のT先生が奥様の霊能力発現を予言していました。

もともと、腱引きのO先生が私の診療所に、コラボ治療のために来るようになったのは霊能者T先生に「その診療所には巫女さんがいるから大丈夫」というお墨付きをいただいたからでした。ここで言う巫女とは神社にいる現在の巫女という意味ではなく、神のお告げを聞ける人という意味での巫女、つまりシャーマンという意味でした。

左:巫女 右:シャーマン wikipediaより

ところで腱引きのO先生がT先生とお知り合いになったきっかけは、O先生がT先生の娘さんを、その腱引きの技術で絶体絶命状態を救ったからだそうです。

O先生は手術で除圧することのできない場所の脳出血で意識不明だったT先生の娘さんを、腱引きで治療を行い、見事に脳浮腫を改善させ、完治させるという奇跡の治療を行ったのでした。

病院では「打つ手なし」と言われ、死をも覚悟した重篤な状態でしたから、O先生はまさに娘さんの命の恩人だったわけです。それ以来、O先生とT先生は協力体制のもとに、難治性の患者を治療しています。特に霊障と思われる患者がO先生のところには多く来られるので、そうした患者をT先生に治療してもらっているそうです。

奥様は以前、T先生に自分の能力のことを電話で相談したことがありました。奥様はいきなり霊能力が身に着いてしまったわけで、その力をどこでどう発揮すればよいかわからないし、とまどっているうちに次々と身の回りで超常現象が起こるのですから不安です。だから強い霊能力があるT先生から少しでも奥様は今起きていることのヒントを得たかったという気持ちはあるでしょう。どちらかというと私のほうが興味津々だったというほうが正解ですが。奥様の師匠である阿闍梨の高僧のO先生(腱引きのО先生とは違います。ややこしくてすみません)は、なぜか霊能力についてはあまり詳しくおしえてくれませんでした。

 さて、T(女性)先生はこれまたすごい人なのです。

腱引きのO先生によると、日蓮上人の霊体と会話ができるそうです。日本屈指の霊能者で、信者の前で湖に波を立てて竜神と呼応する場面を体感させ、その能力を皆の前で示すこともできるほどです。

日蓮上人

奥様はT先生に電話で数回相談しましたが、T先生によると「若いころの私を見ているようだ。」と言われ「あなたもかなり高い能力がありますよ。上限なく成長するでしょう」と言われたそうです。「高い能力だなんて・・・」その当時はT先生が謙遜して奥様のことを持ち上げて言っているのだと思っていました。が、今となってはそのT先生のお言葉は正しかったと言わざるを得ません。

そして最後に「邪悪だと感じたものには目を向けず、無視するように。そしてとりついて来たものには出て行くように念じるように。」とアドバイスをいただきました。

実際に奥様も普段はそのようにして邪悪な霊(波動)を避けているので、それを聞いて「間違いではなかった」と安心したそうです。

 ちなみに、私の母を供養していただいている日蓮のお寺のH僧侶(私の診療所の患者様でもあります)に、「私の知り合いに、日蓮上人と会話ができるという霊能者の方がいるんです」という話をしたところ「そんなペテン師は私のところに連れてきなさい。正体をすぐにあばいてあげます。」とたいそうご立腹したという事件がありました。

私はH僧侶のこの激しい立腹ぶりに大きな違和感を覚えてしまいました。僧侶であるなら、少なくとも私たちよりも霊の存在を熟知し、霊を供養しているはずなのに、霊能者をペテン呼ばわりするのはどうしたものかと感じました。私の場合、奥様が霊能者であるだけに、亡くなった方と普通に会話ができるということを知っています。能力の高い霊能者が日蓮上人と会話ができても不思議ではないと思うのです。だのになぜ頭ごなしに否定するのか? 不思議でした。

僧侶が霊能者に嫌悪感を持つ理由は、この後ずっと先にわかるようになります。

 さてT先生は名古屋の方ですので、私と奥様は診療所の休診日である水曜日にT先生に会うために名古屋に向かうことにしました。

T先生の部屋に行くと日蓮宗の「南無妙法蓮華経」の掛け軸が正面に飾られており、信者の方が相談に来られていました。ちょうどそのカウンセリングの様子を見学することができました。

「家に着物がありますか? はい、うん、うん、その着物を気にされているようです。それをお供えしてあげるといいですよ。」とT先生はひとりでしゃべっていました。先祖の霊と対話をし、先祖の意思を家族につたえて差し上げていました。

 正直言って驚きです。その理由は、奥様のように霊を自分の体に降ろして霊にしゃべらせるのではなく、そばにいるらしき霊(意識体)と直接会話しているからです。

この能力は奥様の能力やイタコの能力と比べれば、桁違いに高い能力です。もちろん、奥様も霊を降ろしさえすれば霊と会話することができます。が、いちいちトランスに入っていたのでは体力が持ちません。ところがT先生は降ろすことなく直接対話します。おそらく霊能力が高まるとここまでできるのでしょう。

 私たちはT先生にお会いして、いろいろと相談したいことがありました。一つは霊力治療の現状をお聞きし、願わくば私たちとも協力していただけないか? 奥様のスキルをどのように伸ばしていけばよいのか? などをお尋ねしたいなあと考えていました。

 しかし、T先生は私たちが一般客と同じように「お悩み相談に来られたのだ」と勘違いされ、姓名、生年月日鑑定を始めました。まあ、口をはさむわけにもいかず、そのまま二人は鑑定してもらうことにしました。奥様は一般的な運勢全般のアドバイスを受けて終了。二人で苦笑いです。

 そして私も鑑定をしていただくのですが・・・。

 私は終止、「魂が汚れている」系のことを言われます。話の雰囲気では「救いがたいほど泥まみれ」のようです。娘の姓名鑑定もしていただきましたが「こんな名前はダメ」とまで言われました。けちょんけちょんに言われてしまいました。

 私はこれまで、真理・真実だけを見つめ、周囲にも常にきつい真実の言葉を吐いて傷つけてきたと思います。そして今日、私はT先生に同じように真実をつきつけられたのだと感じました。

 医師としては切磋琢磨し、がんばってきましたが、そこに至るプロセスとして私の性根は醜いものであると言われたのだと感じました。これほどすごい能力のあるT先生の発言ですから、否定はしません。受け入れます。このまま普通に生きていけば、功徳を積むことなく魂が汚れたまま悪霊となってさまようのかもしれません。

 そして私は「お経を読んで修業しなさい」と言われます。普通に考えれば医者をやっている人間に、修業をせよというのは、日蓮宗の信者でなければかなり無理のあるアドバイスです。ですが、その無理を初対面の人間に言う程、私の今の状態が最悪なのだろうと推測するしかありません。

 奥様に超能力を見せられ、母親の霊を降ろしてもらい、亡くなった方が意識体といて生きていることを見せられ、そして霊能者に私の魂の穢れを指摘されたわけですから、この流れは「私の性根を変える修業をしなさい」というものなのだろうと判断せざるを得ません。

 これが運命であるのなら、今回の研修は私のために設定された研修ということになります。極めて傷つきましたが、私は自分のプライドを自ら傷つける作業を若いころから行ってきた者です。甘んじて受け入れます。

私は帰宅後、その次の日に頭を5分刈りにしました。まずは風体から変えて行こうと思ったからです。

その後、母を供養していただいている日蓮のお寺に向かい、住職に相談します。すると、僧侶は私たちをお食事に誘っていただき、「まずはお経を覚えなさい」と冊子を下さいました。ありがたいことです。

 さあ、私は考えます。この歳で初めて真剣に悩みます。現世では成功と言える地位に登ってきましたが、魂は成長していないと言われているようなものだからです。その成長していない魂で考える「今後のめざすべき医療」は本当に功徳を積むことにつながっているのか? 奥様を先導し、能力開発を行い、一緒に暮らしていくことが正しい道なのか? という迷いです。魂が汚れている者の志は、私利私欲にまみれていると言われているようなものであり、よいと思うことをめざしても邪悪につながっていくということでしょうか。その中で「患者を助けて行こう」とする志が本当に正しいのか? 迷い悩むことになります。この悩みは、私のこれまでの生き方に対する罰なのでしょうか。

 魂の穢れは私の人生だけでなく、先祖たちの悪行が私に影響を及ぼしている場合もあります。その責任から逃げると、その報いは私の子孫に向かうかもしれません。わかりました。私は覚悟します。罪は償い、因果は受け入れ、人々の救済に尽力します。それが苦行であっても受け入れます。今回は私にとって本当につらい旅でした。