臆病者への治療

「山本信子さまですね、調子はいかがですか?」

私は山本信子と書かれてあるカルテをパラパラとめくり、先週のブロック注射の効果を訊ねる。


「お尻から膝裏めでの痛みが全然とれないんです。

「えっ?全然ですか? 注射したその日もとれませんか?」

「いいえ、3日くらいは痛みがなく楽なんです。」

このように言う患者は非常に多い。3日は痛みがとれているにもかかわらず「全然とれない」というネガティブな訴え方をするのだ。


ちなみに注射の効果は医学的には2~3時間といったところだ。それ以上効いているならそれは薬が切れて以降も痛みがないということだから治療効果が期待できるということを意味する。私から言わせれば、治しても治しても次から次へと傷つけてしまうから痛いのだ。


このことを説明しても納得する患者はまずいない。

「私は特別何にも動いたり傷めつけたりしていません」と立腹して言い返す患者が多い。


そうではない。高齢者の背骨の変形は寝て起きる、座って立つだけでも神経を傷めつけるような構造になっている。だから特別なことをしなくても、少し油断しているだけで傷めつけてしまうのだ。そして一度は治ったものをすぐにぶり返させてしまう。3日間(薬の効果時間の何十倍もの効果があるのだから)も痛みが取れているのだからそう考える。


しかしこういう患者にていねいに説明してもそれを理解できる人はいない。だからネガティブな言い方をされる。つまり今は治っていないから「全然治っていない」となる。


ただ、この患者は今まで私の治療に非協力的だった。

というのも「全然治らない」というセリフを彼女が言うたびに私は

「今の注射では力不足ですから硬膜外ブロックというのをすることを強く強くすすめます。」

と再三、再四「私の治療を受けてほしい」ことを手をついて頭を下げて頼んできた。


私は今の彼女の症状を軽快させてあげる自信がある。今の彼女は5分ほど歩くと足がだるくなって、そこで数分ほど休憩をとらないと再び歩けないという間欠性跛行という症状がある。今のうちに治療しておかないと徐々に歩けなくなることが予想される。歩けなくなってから来院されても、そこまで手おくれになると硬膜外ブロックを何度行っても治せなくなる。だから彼女をどうしても説得したいのだ。このことも今まで彼女に何度も説明した。だがその勇気がない彼女は常に断ってきた。断ってきたにもかかわらず「全然治らないんです」と毎回訴える。


普通ならこういう状況では医者は怒るだろう。治す方法があるのにそれを拒否し、毎回診察室でネガティブな言い方で「治らない」と訴えるのだから。「私にどうしろというんだ」と言いたくなる。


「山本様、私は山本様の症状を治したいんです。それを選ぶのは山本様です。私ではありません。私は治す方法があると何度も申し上げています。それを受けないのは山本様の自由です。ただし山本様は治療をあきらめることを選んでらっしゃいます。」

「いいえ、私はあきらめていませんよ。」


「はい、確かに低い確率ですが自然治癒ということもあるでしょう。ですが、よく周りを見てみてください。シルバーカーを押して歩いている方や、杖をついて歩いているご老人をよくみかけますよね。あれは山本様と同じ症状が進んだからああやって歩くしかないんです。自然に治るものならシルバーカーや杖をついて歩いている人がこんなにたくさんいいるのは不思議だと思いませんか?自然に治りにくいからこそ多くの高齢の方がああやって歩いてるのですよ。だから硬膜外ブロックを受けてみませんか?」

「でも痛いんでしょう?それに危険なんでしょう?」

「痛くはありませんが危険はあります。私がやる分にはほとんど危険がありません。しかし危険はゼロではありません。」

「なら、やめます」


こういう会話は彼女とはじめてではない。もう5~6回はしたはずだ。それでも私はくじけずに彼女を説得する。

「私はね、危険でメリットがない注射をいたずらに勧める医者じゃありませんよ。山本様の最大幸福を考えて勧めているんです。危険があることを怖がるのはわかります。しかし命を獲ろうというわけでもなく、注射で後遺症が残るわけでもなく、ただただ「怖い」という恐怖心に打ち勝つだけでいいんです。後は私を信用して任せてくれればそれでいいんです。」


「でもやめておきます」

「まあまだ山本様は注射を拒否できるくらい症状が軽いということなんでしょうね」

「軽くなんかありません。困ってます。」

「本当に困っていれば治療を拒否しないでしょう。本当に困ってから注射してもその時はなかなか治らないんです。ま、いいです。今はまだいいですが、少しでもひどくなったらその時は迷わずブロックを受けてくださいね。」

こんな会話を山本様と何度したことだろう。それでも多分、次回「全然治らない」と訴えてくるだろう。


私は高齢者の末期の変形脊椎に腰部硬膜外ブロックができる特殊な医者だ。特殊というのは普通の整形外科医は高度な変形で棘突起の間隔がゼロの患者には注射しようにもできないからだ。いくらなんでも針を刺すにもその隙間がない高齢者にはできないだろう。だから変形が高度の高齢者に腰部硬膜外ブロックを勧めることはまずあり得ない。というよりも「禁忌」とされている。


それでも良心的な整形外科医は仙骨から同様のブロックをしようとするが、これは腰からするよりも効果が低い。

腕の立つ麻酔科医は私と同様に斜めから針を刺すということができるが、そういう医者にめぐりあえる可能性は低い。


それに加えて脊柱管狭窄症は高齢病であるからして、まず医者が注射で治そうとは考えない病気だ。だからなったが最後、一般的には治療法がなく「手術以外に方法がない」と言われるものだ。


もちろん手術してよくなる保証はない。治る保証もなく勧めるつもりもないのに「手術しかない」というのだから、それは治療ができない患者から逃げるための詭弁という。そういう現状を知っているから私は症状が軽いうちに治療してしまおうとする。そして実際に多くを軽快させた。さらに言えば、症状が軽いうちに予防的に治そうとする極めて奇特な医者だ。


なぜ奇特か? 症状が軽いうちは患者が医者に治療を要求しないからだ。治療を要求しない患者にリスクのある注射をすすめれば何か不手際があったら責任を負わなければならない。そんな自分の身を窮地に立たせるような行為を誰もしたくないものだ。私は自分を窮地に立たせてでも治療をする。


普通の整形外科医にかかったとしたら、進行したら「手の打ちようがない」とあきらめられてしまう重い病気なのに、私の治療の勧めをこの患者は軽々と断っているのだ。なんともったいないことを…


患者をまだ軽症のうちに治療したいという思いが強いだけに、私は自分の治療技術が高いことを患者に説明することがある。治せる、しかも安全、しかも痛くないことを伝えて少しでも多くの患者を救いたいからだ。


しかし、それを「自慢する医者」だと思われてしまうのがとても悔しい。前にも話したが、患者を説得するために自分の治療技術のことを書いた文書を配ったら「高い技術って何ですか?学会が認めたんですか?証拠があるんですか?」と院長にお叱りを受けたことがあった。その言い草はお役人だろう!


「目の前の患者を本気で治そうと思ったことのないあんたにはわからんだろう!」と言いたかったがそんなこと吠えても理解されないから黙っているしかなかった。悔しいが仕方がない。難治の病気を治せる医者は他の医者のプライドを傷つける。こう言う文章を配ると他の医者のプライドが傷つけられるのだ。だから治療は足並みをそろえなさいと言われる。


これは医療界だけで通用する非常識。雇われの身ではスタンドプレーはほどほどにしなければならないようだ。難治性の病気を治せるのに同僚にも患者にも信用されない。この壁をどう乗り越えるかが課題だ。腕があっても信用がなければその腕はふるえない。


私は自分の診療に迷いがない。患者の訴えから最後まで逃げず、高齢だから無理と言われる治療をあきらめずに徹底的に全力を尽くす。全力であるからはその方法は一つしかなく、選択肢がいくつもあるわけではないから迷わないのだ。そのための困難は好んで受け入れた。そのためには難易度の高い注射さえもできるようになった。そして今でも毎日毎日注射の腕が上がっている。


しかし、常に「困難を友として生きよう」と志す自分としては「自分の道を自分で選べない臆病者」に対していらつく。「この歳まで生きていて自分で自分の選んだことに責任をとれない生き方をまだしているのか」と言いたくなるのだ。そういう心の弱さを私はとても嫌う。嫌うからこそ彼女に余計にいらだつ。もちろん彼女にいらだつのは私の心の弱さだろう。


そして弁解するようだが、彼女にいらだつのは1年前の自分だ。矛盾するようだが実は今、彼女にそれほどいらだたない。なぜなら1年前よりもさらに今は治療技術が上がり、自信がついてきたからだ。


今は自分のことを信用してくれない患者、治療に非協力的な患者、少しの副作用でも医者を訴えようとするような患者を積極的に治療するという困難に挑む自分がいる。だから彼女にいら立つのではなく、彼女は自分の修行のための役立つと思っているから逆に大事な患者様だ。今年の私はそう思える自分がいる。


信用してもらえないなら噂が立つまでがんばればいい。2年もここにいればこの地域で再び「腕のいい医者」という噂が広まる。彼女もまた噂が広がれば私に治療を要求してくるようになるだろう。ただ噂が広がる前に彼女の症状が悪くならないことを祈るばかりだ。