第二十三話 真言宗の縁

私の診療所には難病・奇病で現代医学で見放された患者様が全国から集まります。中でも最近多いのは「首がうなだれてしまって持ち上がらない」という症状の方です。病名がはっきりついていませんので「うなだれ首症候群」と名付けていますが、大脳基底核の血行障害によるものと推定し、脳の血流量を増加させるブロック注射でこれまで数十名の方を改善させています。もちろん現医学では治すことができません。
ある日一人のうなだれ首になってしまった80代の男性が車イスで来院しました。妻に車イスを押してもらいながらです。 私はいつものように上頚神経節ブロックを超音波診断装置を使って行い、1回目の治療でかなり首が持ち上がるところまで改善させました。 本人はこれまで大学病院を数か所回って、それでも治らなかったものが注射1本で改善したため、大喜びでした。そして大変感謝されました。
そこで私はこの患者に 「私の診療所をどうやって調べたのですか?」と質問しました。 「私の知り合いの漢方薬の先生にここを教えてもらってきたのです。」 「そうですか。それはよかったです。その方はどういう方なんですか?」
なぜこのように質問するかと言いますと、難病を治すためには患者本人にも覚悟と根性と私への信頼が必要であり、人から紹介されてやってきた方は私のことをよく調べることもなく来院し、そして私の指示に従わない方が多いので来院の経緯を知ることは、治せるかどうかを考える指標として重要だからです。
「ここを教えてくださった方は真言宗の僧侶の方できちんとした位のある立派な方なんです。」 「へえええっ、そうなんですか。」 「そうなんです。高野山で修行された僧侶です。その方が私の症状を見てインターネット検索して「ここにかかりなさい」とおっしゃってくださったのです。」 「それはすごい。」 私は奥様と顔を見合わせました。なんと今年に入って3人目の僧侶の方。しかも真言宗の方とのつながりです。
「いやあ、一度高野山に行きたかったんですよね。」と言うと 「今度紹介します。」とのこと。 まだうなだれ首の症状が改善しきっていないというのに、さっそく2週間後にその真言宗の僧侶の方との会食会を計画していただきました。大変感謝です。
2週間後、水天宮前にあるロイヤルパークホテルで会食をすることになりました。患者夫妻と私と奥様、そして先生の5人です。
この僧侶の先生は腕に金色の豪華な腕時計をしており、すこし変わった方だなあと思いましたが、それもそのはず、先生は僧侶を10年前に退職され、そして漢方薬の業界で成功し、今は実業家として東京と大阪を行き来しているそうです。今回は私たちと会食をするためだけに東京に来てくれたようです。本当にありがたい話です。
私は食い入るように先生の話をうかがいました。中でも興味深いお話は死ぬ直前に生前の仏を前に問答をし、悔いのないように全てを吐露させると死後硬直が起こらなくなるというものです。
僧侶の行う仕事の一つにそういうものがあることや、法力を得ようとして修行する者が多くて嫌気がさした話や、結局野に下り人様の役に立つことをするべきだと悟り僧侶を退職された話などいろいろ貴重な話を聞きました。
商業主義に走るお寺の批判やお墓を立てお経を読めば祖先が浮かばれるなどという話に疑問を持っているという発言に私は驚くほどの親近感を覚えました。
ただ、気になる話として奥様の能力は「閉ざした方がいい」と言っていまたことです。「その感受性の強さ、色気、能力・・・どれも前世で人々に強い影響を与えすぎてきたはず。だから現世では閉ざすべきである。」と言うのです。
おそらく、難病治療に携わらなければ、奥様の能力は芽生えてさえいなかったでしょう。奥様の能力は難病治療のネットワーク作りや患者の役に立っていることを考えると、私には使命であると思えてなりません。使命によって生まれた能力を閉ざすべきだとはとても思えませんでした。明らかに普通の人間よりも優れた霊能力であるのにそれを持っていることはいけないことであるかのように言うのは全く理解できませんでした。ここだけは断固先生と意見が合いません。なぜこの僧侶がそんな話をするのか・・・霊能者に対する妬みなのか??? 私は逆に不信感を覚えてしまいました。 霊能力を持つ者は近い者にほど妬まれます。もっとも妬むのは僧侶、しかもくらいが高い僧侶程妬むという仕組みは永遠に不滅でしょう。そして霊能力がある者は「その力は閉ざした方がいい」「病気の素である」と言われ、早期にその芽を摘まれてしまうのが世の常のような気がします。
確かに奥様の能力は、使命がないのであれば病気の素になるかもしれません。しかし、私の診療所には奇病が訪れ、中にはスピリチュアルな治療をしなければ根本的に治せない方もおられるでしょう。そいう方を救うのが奥様に与えられた天命であるような気がしてなりません。
私は奥様と10年以上寄り添っていますが、明らかに奥様の能力は天性であり、能力が目覚めていなかった時も普通の人では考えられない特殊な部分がありました。つまり、能力は修行でも身につくでしょうが、天性のある人は修行などしなくても超自然現象を起こせる能力を持ちます。そしてその能力をうまく使えばその政治力で一つの国のトップになることさえできてしまうでしょう。邪馬台国の卑弥呼がそうであったように。
よって能力者は妬まれ、そして場合によっては悪と言われて世間から遠ざけられることもあるでしょう。だから能力を良く言われないのかもしれません。修行僧が一生修行しても奥様が数か月で身につけたものと同じ能力に達することさえ難しいでしょう。天分ですから。
彼らは「能力を閉ざした方がいい」という一方で、修行して必死に法力を身につけようとしているところに大きな矛盾を感じます。言っていることとやっていることが相反するということに彼らが気づかないのは、そこに嫉妬があるからと推測します。
奥様は決して一般敵ではありません。道が険しいこともよく知っています。それを知りつつも、そこに飛び込む覚悟ができています。その覚悟があることを先生には見抜くことができなかったのでしょう。 私たちはなぜこの能力を「閉ざした方がいい」と言われなければならないのか・・・今後、少しずつわかっていくことになるのでした。