おれの診療にくちをはさむんじゃねえ

看護師長が突然私にこう言った。

「先生、これからは注射の中にステロイドを入れないでください」

「・・・」

「そうですか・・・」


これまで注射液の中にステロイドを入れると、保険制度で査定されて戻ってきていたという経緯があったことは知っている。ステロイドは査定せよという偏見が全国共通の認識として保険査定医の間に存在していることも知っている。なぜこれを偏見と呼ぶのかはここではあえて追及しない。


しかし、これまでカルテに記載したステロイドは伝票には起こさず、請求しないという方法で保険制度の網の目をくぐってきていたではないか…それをいまさらどうして…。ステロイドの料金は100円にも満たないのに、そのくらいの料金を患者にサービスもできないというのか…。


私は何度も言うが、常に保険制度と戦いながら、経営者の圧力に屈しないようしながら、自分の首をかけて勤務している。こういうことを言われたときに「私の診療に口をはさむなら、ここを即座にやめます」と言う強硬姿勢をとりながら勤務してきたという意味(前の項を参)。


経営者からの圧力をはねのけるために、外来の患者数は常に超満員、売上は他の医師の3倍という実績を作ってきた。しかし給料アップは要求せず、毎日超過勤務をしてもすずしい顔でやってきたのは「治療方針に口出しさせない(多少の薬剤を患者にサービスする)」ためだ。


看護師長はその強硬姿勢をものの見事に簡単に突破してきた。根性あるねえ。私がやめればここの売上はがた落ちになって経営が傾くだろうに…勇気あるねえ。としかいいようがない。まあ、ここの経営者は他にも手広くチェーン店を作っているから、一つや二つ店を潰したってかまわないのかもしれない。ならば私のような医師はやめる以外に手はない。


良質の医療をするためには自分の診療スタイルに口出しさせないだけの力量が必要なことは言うまでもない。他の医師の3倍働いてこそ、口出しさせないという権利が生まれる。私は実際にそのように働いて実績も見せたが、ここの経営陣はバカだったようだ。バカに理論は通用しない。私がどういう信条で医師を続けているのかも理解していないようだ。


とりあえず、私は師長に言われたとおり、最初はステロイド抜きで注射をすることにしてみた。言われたことを完全否定するのではなく、とりあえずやってみることにしている。


するとこんな患者がやってきた。

「先生、先週のお膝の注射の後、全く痛みがなくなりました。階段を昇っても降りても痛くないし、10年間できなかった正座もできるようになったんです」

「それはよかったですね」

こんなふううに奇跡の回復をした理由はケナコルトというステロイドを先週膝に注射したからだ。


ケナコルトは強力なステロイド剤なだけにその使い方が難しく、多くの医者は嫌う。だからこの患者は遠路はるばる電車で2時間かけてここに来院し、さらに2時間以上の待ち時間を待って私の診察に入ってきた。それだけ労力をかけてもケナコルト入りの注射をすることに莫大な価値があることを身を持って感じているからこそ来ている。その患者を目の前にして


「ごめんなさい。今日からあの注射ができなくなったんです。保険の方で査定されてしまって使えなくなったんです。」

「ええっ、そうなんですか?」

「本当にごめんなさい。」


この患者の落胆は手に取るようにわかる。何時間かけて今ここにいると思う?この患者は膝と腰が多少不自由にもかかわらず電車で2時間かけてここに来ている。そして希望した注射が打てないと言われたのだから…私の良心はとても傷んだ。査定はたかが100円以内のなのに…


そして次の患者が入ってきた。次は30歳の男性で左膝がぱんぱんに腫れている患者だった。彼は仕事のし過ぎから膝関節症になり、この若さで膝に水がたまるようになってしまった。それでもケナコルトを入れるとその水はさっと引き、嘘のように軽くなって再び仕事復帰できるようになる。そうやって不定期に通院している顔なじみの患者だった。


「今日はとくに左膝がぱんぱんですねえ」

私は彼の膝をさわりながらそうつぶやく。私はこころに沸々としたものを覚え、がまんできなくなった。


「師長、ちょっとこっちに来てくれ!」

その強い口調に師長はそそくさとやってくる


「師長、この患者のこの膝を見てください。こんなにぱんぱんに水がたまっているでしょう? これを単に抜くだけでは、すぐに水がたまるでしょう? ケナコルトを入れればあっさり引くんですよ。この働き盛りの彼のこんなひどい膝を見て、ケナコルトを使わないでいられますか?これでもステロイドを入れるなと言えますか?」


私は患者の前だったが大きな声で師長にそう叫び、師長の忠告を無視してさっさとケナコルト入りの薬剤を彼の膝に注射した。もうがまんできなかった。


彼の膝はケナコルト入りの注射をするとその後数か月に渡りとても改善することを知っている。これまでずっとそうだった。それを知っていながら、目の前のこんなひどい膝の状況を見て、あまり効果のないヒアルロン酸の注射なんてできなかった。それは私の医の倫理に反している。


彼は本日の最後の患者だった。彼の診療が終わった後、師長に言った。

「この病院やめるわ」


私はとてもなさけなかった。ここに来て4年以上経ったが、師長は私の診療がどれほどの患者を救ったか見てきたはずだった。他の医師の3倍の売り上げを出し、今だって時計を見れば夜の8時を回っている。それほど常に超満員の外来。地域の患者に信頼され「あそこの診療所に行けば治るから行け」と呼ばれる診療所にまで評判を築きあげたが、その仕打ちがこれだ。まあ、私は院長でもなんでもないヒラの野良医者だから仕方ないのだろう。


医者の診療に口をはさむ…それは私にとって絶対に許し難いものであり、この砦だけは首に替えても守り抜くもの。その聖域に土足で入ってきた経営者側。師長も含めここの経営者たちは何もわかっていない。


私が常に自分の首をかけて「全力を尽くす診療」をしているということが、4年経ってもまだわかっていない。まあいい。何度も言うようにここの経営者にとってはこの診療所は多くのお店のうちのひとつ。倒産しても痛くもないだろう。そういうところで私が一人で侍魂を燃やしながら診療をしても、それは通らないのかもしれない。


私も40代。再就職は不利だろうなあと思いつつ、一から就職活動か…妻子に申し訳ない。と悔やむ気持ちもある。だがそれよりも私は社会貢献に生きたい。そのためにやめるのだ。そしてそそくさと診療所を後にした。


その後に師長からメールで「あれは間違いでした。今まで通りステロイドを使って診療してください」と届いた。

「了解です」とだけ返信した。


武士に二言はない。たとえつぶやきであろうと「やめる」と言ったからにはやめる。私は首をかけて背水の陣で仕事をしているが、「やめる」ことを脅しの材料にして自分の環境を有利にしようというようなかけひきはしない。間違いだったとかそんなことはどうでもいい、私の聖域に土足で踏み込んできたからにはそれを許すことはない。