副作用にびびるのもいい加減にしろ

私が患者の治療にあたるとき、余すことなく全精神力をかけることを自分の趣味として日々送っている。全精神力をかけるとは常に現在の医療の限界を超えることに挑戦することを意味する。早い話が、私が少し常識を破ってあげることによって治らないものを治すことを意味する。


毎日少しずつ常識を破り、新しい治療を何かしら発見する。その積み重ねを日々繰り返すことによって今までは単にあきらめていただけの病気を治療できるまでにこぎつける。その新しい知識や技術は常に患者に還元される。


毎日少しずつ破る常識は、ちりも積もれば山となり、そのうちだれも発見できなかった体の法則を発見できるようになったりもする。別にその発見をして世界に名を馳せようとなど少しも思わない。ただ、目の前に困っている人を「無理だからあきらめなさい」と説得することが私の良心をとがめるだけのこと。今は無理でも来年には治せるようにと少しずつ常識を破っている。


たとえばこうだ。

整形外科や麻酔科の領域ではエックス線で透視しながら神経をねらってブロック注射をする。それを神経根ブロック、別名ルートブロックと言う。皮膚から6~10センチ近く深いところを走っている直径3ミリ程度の神経に針を刺すわけだから、通常は透視しながらでなければ不可能である。私はそれを患者の背骨の形を表面から探ることにより、透視を用いなくとも瞬時にさせるようにまで修練を積んだ。


だから外来でうつぶせに患者を寝かせ、そのまま「はい、刺しますよ」とつぶやきながらものの数十秒でルートブロックを行うことができる。おかげで今まで治せなかった神経痛を驚異的に治してきた。


こういう常識の破り方をすると、あとは常識破りの治療方法が加速する。ルートブロックというような神経をすり減らす大変な作業でさえ、1週間に3回ずつ1ヶ月間繰り返し合計12回行うなどという芸当も可能となる。


どこの病院でも数回のルートブロックで治らないような神経痛は「あきらめなさい」とときふせていたものが、私の腕にかかれば治るまでやる!というふうに変わる。これが私流の常識の破り方。実際これで何人もの寝たきり予備軍の高齢者を救ってきた。


患者は私のルートブロックを単なるトリガーポイント注射くらいにしか思っていないからもちろんそのありがたさを誰一人知らない。「少し深い所に注射するからよく効く」くらいにしか思っていない。別に私は恩着せがましくするつもりがないので、いちいち患者が私のことを評価しないことなど気にしない。ただ、私は普通の医者が治せないものが治せるので外来は常に大混雑状態になっているというそれだけのこと。


しかし、あまりにも手軽に治療するおかげで患者が私に甘えてくることに大変困惑している。それは患者が私にないものねだりを次々としてゆき、増長してゆくことだ。患者に増長されては治療の邪魔になる。


今日は外来をやっていると患者たちが大きな声で、待合室で会話しているのが聞こえた。

「私ね、この間注射してもらったら足がしびれて動けなくなったのよ」

「あら杉村さん、そうなんですか?私もこの間の土曜に動けなくなって、ここで30分休んで帰ったんですよ。おかげでお昼の支度ができなくなったんです」


「私もそういうことよくあるんで、今度はしびれない注射をしてもらうように先生に言ってみようと思うんです」

「あら、しびれない注射なんてあるんですか?」

「できると思いますよ。しびれないときがあるんだから」

「なるほど…じゃあ、私も言ってみようかな」

「言いなさいよ。言った方がいいですよ。」


こんな会話が大声でなされていた。高齢になると耳が遠くなるので大声で話す。だから私にもはっきり聞こえたわけだ。


杉村さんは脊柱管狭窄症で腰を3回も手術したつわものだ。性格的に非常に問題ある患者で、自分が思う通りにできなければ医者を何度でも変えて治療してもらうまでてこでも動かないというような強い性格の持ち主。手術するたびに悪化しているが、それを認めることもなく日々医者に最善の治療を要求する。


もちろん医者の言うことはほとんど聞かない。自分の考えだけで突進し、紹介状も書いてもらうこともなく医者をころころ変えるから今のような状況になっている。今は神経痛がひどく歩くのもやっとだが私に甘えきっている状態になっている。


私は、まあいい、彼女の痛みが少しでも楽になるのなら希望をかなえてあげようというつもりで、彼女のリクエストのまま治療している。それが少々無理難題であっても、何食わぬ顔で治療している。だから彼女の中ではそれが普通になってしまった。甘やかし過ぎた。


「うわああっ、杉村さん、他の患者に変なこと吹いてるねえ。彼女には困ったもんだなあ」私は婦長にそう言いながら前の患者を送り出し、杉村さんの話し相手であった持田さんを診察室に迎え入れた。

「持田様、どうぞお入りください。この間の注射はいかがでした?」


私は前回の注射の結果を患者に必ず訊ねる。その効果次第で次の治療を決定するからだ。持田さんは腰と右脚の痛みを強烈に訴え、過去ルートブロックを毎週行っていた患者だ。注射をして2日は痛みがほぼゼロ近くになる。しかし3日目からぶり返し結局1週間後には元に戻る。


ルートブロックが効かないから毎週の腰部硬膜外ブロックに挑戦した。彼女の背骨は変形が強く、並みの医者には技術的に注射が困難だ。それでもがんばった。しかしこの治療法でも結果は同じ。


普通の医者なら持田さんのような治療困難な例では治療をあきらめる。年齢も86歳。高齢者の変形脊椎はブロックが禁忌とされている。しかし私は常識破りの医者なので治らないのなら治るまでやってみる。の考え方の元、腰部硬膜外ブロックを週に2回、ルートブロックを週3回する計画をたて今回はその3回目。2日で痛みが戻るなら、戻る前に次の治療を開始する。


もちろん治る保証はないから、それは壁に拳をぶつけるような作業だ。壁が破れる前に拳がいかれるかもしれない。あきらめるか壁をぶち抜くかの精神力勝負という状態の治療。やればやるほどリスクは高くなるので、その責任を全て私自身が背負っての勝つことの見えない勝負。そういう困難な崖っぷちに自分を追い込むからこそこんな治療ができる。


しかし、患者には私の「自分を崖っぷちに立たせる精神」は伝わっていない。単に腕のいい先生くらいにしか思っていないようだ。それはそれでかまわないが、今回の彼女の発言には私はプッツンと切れてしまった。


「先生、しびれない注射お願いします。」

  • やはりそう来たか…

「持田さん、ぼくは遊びであんたの治療してるんじゃないんだ。悪いけど全力で今の状況を何とかしようとして治療してるんだ。しびれるのは治療が成功している証拠で、それが嫌だっていっていうならぼくは治療を止める。」

「先生、怒らないで下さいよ。やめてもらったら困ります。」


「悪いがね、ぼくが持田さんを困らせようとしてしびれさせてるとでも思ってんですか?しびれるのがぼくのミス注射だとでも思ってるんですか? 注射がばっちりうまくいってるからしびれるんでしょう? ミスだったらぼくは最初からミスだって言うよ。しびれることがあることは前もって言ってるでしょう? 持田さん、ここまで真剣に治療してる医者の前でふざけるなよ。いやならとっとと他の整形外科に行ってくれ。」


「持田さん、しびれるのは注射がうまくいった証拠なんですよ。」

婦長がおろおろしている彼女にフォローしている。


私は常に全力で治療をする。しかし、治療には患者の固い決意が必要になる。2~3時間も待つ私の外来に週3回も通わなければならない。毎回リスクと隣り合わせの激しい治療を受けなければならない。そして他の医者ならとっくにさじを投げられている病気に対して、医学の限界に医者ともども挑戦する。そういう見えない壁を破ろうとしているときに「しびれるのがいや~~~」とは何事か!


これではまるで「限界に挑戦するのは全て医者の方。私(患者)に起こる不具合は絶対に受け入れない。治せるものなら勝手に治して見せなさい。」的な発想だ。


私は今、若者が高齢者を死に物狂いで支えなければならない捻じれた高齢化社会をどうにかしなければならないという使命感で医者をやっている。歳だから仕方ないというセリフを吐かず、歳でも自立できる健全な体づくりを実現するために日々現医療の限界を越えようと精神力をかけている。そして、こういう精神力を他の医者たちにも培っていってもらえるよう、こうして日々のことを文章にしたりもしている。しかしだ。


持田さんのような考えの高齢者を各々の医者が治療する気になれるか?は大変難しい問題だと思う。


医者が限界と立ち向かうとき、リスクを背負い、教科書に背き、一切の責任をとり、まともにお金を請求できず、面倒くささと戦い、神経をすり減らし患者の治療に全力を尽くさなければならない。そういった治療の中で「治療が成功していても、患者の勝手な判断でそれをネガティブなこと、迷惑なこと」と受け取られてしまう。


ここまで精力的に尽力していることが「迷惑なこと」にすり替えられている。この偉大なる屈辱に全国の医者が耐えられるだろうか? 高齢者を救うこと=屈辱に耐えること、であるならば、おそらく、こんな損な役割を買って出てくれる医者は皆無だろう。


こういう甘えきった患者一人一人に命を削ってまで治療せよとは、私は全国の同業の医者たちに提言できない。

「持田さん、ふざけるのもいい加減にしろ」


私はこんなふうにしか言えない自分をなさけなく思った。わかってもらえなくても私はあなたを治療する。でも全国の医者はそうではない。高齢者を最後の最後まで自立した状態にさせるための医療。そこを目指すにはあまりにも医者の苦行を強いることになる。


その苦行に医者たちを導くことは私にはできない。医者も人間である。全精神力をかけて尽した医者たちが、このような屈辱を浴びることがわかっているなら、そこへ導くことは悪の道だ。


しびれない注射…そんなものは簡単にできる。治療の手を抜けばいつだってしびれることはない。神経を狙って注射するからしびれるのであって、適当にどうでもいい注射をすればしびれることなど皆無だ。


彼女は全力を尽くす医者を目の前にして、「あんたの注射は気にいらないから手を抜いてくれ」と言っているのも同然だった。


持田さんにはこの集中治療をする前に、「あなたの協力も必要だから一緒に挑戦しよう」と説得をしたはずだった。納得してもらったはずだった。わかってもらってたはずだが実際は信用さえもしてもらえてなかった。


「悪いが、ぼくはどんなに怒っても、最後まであんたを治療するから安心しろ。」

これが私の捨て台詞だった。


怒るではなく落胆している。こんな無責任で甘えたやつらを全精神力を尽くして治療しなきゃならないのか…わかったよ。やるよ。それが私の心の中のつぶやきだった。


彼女にはその日、腰部硬膜外ブロックとルートブロックを二つ同時に行った。もちろん、こんな治療は認められていない。認められていない治療をしても治療費は請求できないから半分は完全自前のサービスになっている。そこまであり得ない歓待サービスをしているのだが本人はそういうことを全く知りもしない。私も教える気もない。自分を傷めつけるのが私の趣味だし。


「持田さん。今日の注射はしびれないよ。ちゃんと手を抜いておいてあげたから。」

これがいやみであることは86年も生きた彼女にならわかるだろう。さすがの私にも「しびれるのがいや」と言われた患者に再びしびれる注射を打てるほど私の心臓には毛が生えていない。


「今日はしびれてません」とそれが満足であるかのように彼女は退室していった。医者に手を抜かれたのに満足していった。悪いが、しびれないような注射では治療効果が低い。


自分の体を治すためにたった30分間しびれることをがまんできない患者たち。ここまで医者と患者の意識にはギャップがある。


医者が医療の限界と立ち向かうとき、患者を治す義務は発生しない。限界を超えたことは教科書も厚生労働省も教授も認めていない。認めてもらえないところに尽力するのは義務ではなく趣味と情熱だ。


わかってくれるのは患者だけ…のはずだったが、患者にもわかってもらえていない。その孤立無援に立ち向かう医者がいなければ高齢化社会を救えない。さあどうする。