人のからだは正規分布に従わない

はじめに

採血データ、脈拍、血圧、視力など人間から採集するデータは正規分布に従う。たとえば空腹時の血糖値はほとんどの人が70から110の間に入り、その数値から外れる人は全体の5%未満である。この5%のことを危険水域といい、危険水域に入っている人は人間としての生体恒常性に異常をきたしやすいということが医学診断学の大原則となっている。


この大原則を元に血糖値と血管病変、血糖値と神経病変などの疾患の有無と相関を求め、関連ありとされることから治療が始まる。  つまり血糖値を下げれば病気が起こらない、という推測の元に糖尿病治療が行われる。これが医療の大原則であるが、この推測が正しいという科学的根拠は実はない。


「科学的根拠がない」と断言して面食らったとは思うが、真実である。 なぜなら、そもそも統計学的な相関は、関連があることを科学的に証明できるが、因果関係は証明できないという原則がある。その原則を知りつつ、因果関係をほぼ断定的に宣言する学者が世界中に大勢いることにまず落胆を覚える。


人間の体に起こる異常の因果関係はAだからXというような1対1対応になっていない。AがBを起こしCとなってXとなったり、AにBが加わることでXになったり、AとBにCとDが重なるとXとなったり…原因と結果の関係がたいへん複雑である。  統計学ではAとXの関連性を科学的に証明できるが、Xの原因はAであると述べてはならないことになっている。なぜならそれは真実ではないからだ。


しかしながらAだからXというような仮説の正当性を統計学で証明できるかのようにデータを示す風潮が世界で蔓延しており、これが医学的な嘘を広めてしまう土壌となっている。  ここでは人の体が正規分布に従わないことを示し、データ異常と症状を関連付けることの根本的な考察方法の変革が必要であることをわかりやすく述べていく。


 

交感神経の興奮と血圧の関係

緊張やストレス→交感神経が興奮→アドレナリンが分泌される→血圧・心拍数が上昇。この原因と結果は医学の教科書に古くから掲載されているが、これが間違っていることは普通に経験する。ある者は緊張がピークに達すると血圧低下と除脈が起こり、ショックとなって意識を失う。
よって最初に示した定義「緊張やストレス→交感神経が興奮→アドレナリンが分泌される→血圧・心拍数が上昇」は誤りである。
ところが、統計学的処理では誤りとならない。


たとえばホラー映画鑑賞中、100人の実験で緊張と血圧上昇の関連を実験すると、100人中99人は確かに血圧の上昇が認められ、血圧が低下した者は1人のみであった。すると緊張と血圧上昇は相関あり、となり、緊張することが原因で、血圧上昇が起こると言ってよいような風潮になっている(本当は言ってはならないのだが)。


血圧が低下した1名を例外と扱うことで、このような因果関係を推測し医学書には真実として掲載される。
だが、真実は違う。緊張やストレスをホラー映画で実験するのではなく、ライオンに脚をかじられて瀕死になっているところで血圧測定したり、高所恐怖症の人に東京タワーのてっぺんで実験したり、「極度の緊張状態」にして実験すれば、おそらく半数の人は血圧低下が起こると思われる。


100人のホラー映画鑑賞では、そのうち1名がホラー映画程度で極限の緊張が発生した(過敏症がある)と考える。だが、全員を絶体絶命の極限の緊張状態にしてしまえば多くの被験者に血圧低下が起こるであろう。
よって100人中99人が緊張→血圧上昇となったからといって「緊張すれば血圧が上がる」と「因果関係を述べてはいけない」ということの理由が理解できるだろう。
たった1例を例外とできないのが人間のからだのしくみなのである。


試合前に下痢することを今の医学で解明できない

緊張→交感神経優位→腸ぜん動が低下、となるのが医学書に記されている。逆にリラックス→副交感神経優位→腸ぜん動が亢進となるとも記されているが、これも極限の緊張で交感神経優位となった場合、腸ぜん動が活発になり下痢となることはよく知られた事実である。


医学書の内容は通常の緊張ではあてはまるが、実際、極度の緊張では逆の結果を導く。しかし「極度の緊張」は平常時は起こらない。よって100人の実験では緊張→腸ぜん動低下は正しいとされてしまう。だがそれは正しくない。


ここで問題となるのは医学的な実験のほとんどが平常時の人間限定で行われているということ。そういう集団で相関をとると、「結果が逆に出る人」は単なる例外、変な人、と扱われてしまい、なぜ一人だけ逆の結果となるのかを誰も考えようとしない。


緊張と腸ぜん動の関係は「平常時」と限定すれば一次関数グラフになるだろう。しかしながら「極度の緊張時」と限定すれば一次関数は傾きが逆になる。おそらく緊張が強ければ強いほど腸ぜん動が亢進するということが起こるようになる。


これまで医学はこの「統計学的処理方法でデータが真逆となる」ということを無視してきた。
データが真逆となる稀な例を例外とすることで「嘘を真実」へと見せかけてきた。嘘は少しずつ暴かれていくので今の時代の医学書は1000年後には嘘だらけの書物になるだろう。


統計学的処理を行うことで「因果関係」について推論し、それを正しいとする古くからのならわしにより、嘘が医学書に掲載される。この習わしこそ、科学の恥である。
推論はどこまで行っても推論であり、統計学的データで仮説が正しいことを証明することは不可能である。だがそれでは学問が発展しないから、論文の審査員も含めて全員でしかとしているのが現状である。


性格を変える薬、SSRIの間違った使われ方

SSRI(セロトニン再取り込み阻害剤)は一昔前からアメリカ合衆国でベストセラーになった「性格をおだやかにする薬」である。
私は当時、人間の性格を構成する脳内ホルモンのことを熱心に研究していたので、一般的な精神科医よりもこの薬の作用機序や副作用について熟知している。


おもしろいことにSSRIは不安や焦り、イライラを取り除き、性格を穏やかにさせるという作用と、不安や焦りを強くさせ、イライラが激しくなるという作用がある。
賢明な人なら「おい、ちょっと待てよ」と言いたくなる。なぜなら作用が真逆というのは、薬においては「そんなこと、あってはならない」ことだからだ。


この矛盾については当時から言われていたが、統計学的処理という手品を使ってごまかしていた。それは「真逆に出るのは750人に1人であり、そんなことはめったに起こらない」と例外扱いする手法である。
私も当時、患者にSSRIを使用してみたのだが、真逆に出るのは750人に1人ではなく7人に1人くらいだった。なんと公の発表の100倍である。


統計学では7人に1人が真逆に出たとしても相関は成り立つ。つまり「SSRIを使用すれば不安や焦りはやわらぐ」と関連付けることをよしとされる。しかし本当はよしとされない。何度も言うが統計学的データでは因果関係を述べてはならないことが数学的な原則である。科学者たち(教授ももちろん含める)は商業目的でそれを無視しているだけである。


このように薬の作用が人によって真逆に出てしまう理由を、私はその当時から研究していた。
その理由は、他のホルモンとのバランスである。セロトニンと対になるのがノルエピネフリンであるが、このノルエピネフリンが多く分泌されている時と少ない時で、セロトニンの作用が逆になるということを推測していた。


たとえばノルエピネフリンが少ない時はセロトニンがある一定量を超えるとノルエピネフリンの分泌を急激に高め、その作用で結果が真逆に出てしまうのではないかと考える。


このようにホルモンバランスによって薬効が逆になる。それは750人に1人ではなく、極端な言い方をするとノルエピネフリンが少ないという状態にある人限定でデータをとると、750人中750人が真逆に出ることもありうるという意味である。


統計学的データではSSRIで真逆に出るのは750人に1人であり、それは例外であり無視してよいと精神科医はうそぶくが、実際は違う。ノルエピネフリンが低いという状況下の750人を集めれば、ほとんどの人が真逆に出るかもしれない。しかしノルエピネフリンが少ない人を集めたとしても、一部の人は普通の薬効作用が出る。


なぜ一部の人が普通に出たのかを考えるとさらに複雑になる。
実際はノルエピネフリンだけがセロトニンに反応するわけではなく、ドーパミンやバゾプレシンなど他のホルモンも複雑に絡んでいるからだ。よってエピネフリンが低ければ、必ず真逆に出るかといえばそうではない。


私は当時、セロトニン、ノルエピネフリン、ドーパミンの3つの絡みを推論し、人間の性格がこの3つのホルモン動態でどう変化するかを熱心に研究し、書籍まで出版している。
この当時から精神科医たちの浅はかな理論に嫌気がさしていたものだ。彼らは統計学を手品のように使い、真実を見ずに薬効を述べる。おかげでSSRIで不安がかきたてられて酷い目にあった人が跡を絶たなかった。
今ではそれを防ぐためにSSRIの中にノルアドレナリンの作用を強める薬を混ぜて工夫している。


人の体は統計学が入り込めないほど複雑な因果関係を持っている。AだからXというような単純公式にはならない。しかしながら平常時にAだからXとなる人が10人中9人であると、AだからXになると断言する学者だらけである。もう一度言う。統計学はAとXの関連は述べてもよいが、AだからXであるというような「因果関係」を述べることはできない学問である。そうした数学の大原則を無視しすぎている。


病気の時は相関グラフに従わない

たとえば、ノルエピネフリンの分泌が正常である100人でSSRIの薬効実験をすれば、そのほとんどがSSRIで不安が消えて心が落ち着きましたと答えるだろう。しかしながら、ノルエピネフリンが異常に低下している者を100人集めて同じ薬効実験をすれば、そのほとんどに真逆の副作用が出るかもしれない。
たとえば人は寝ている時に地震などで起こされると、通常ではありえないような強烈なドキドキを感じたり焦りを感じる。寝ている時は非常時である。非常時の反応は明らかに通常時とは異なる。


病気の時は人体内では「非常時」の状態であり、その際の薬効は相関が逆になる。この事実を無視して医療にたずさわるからこそ、予期せぬ副作用を患者に発症させてしまうのである。
薬効や副作用が人によって様々であるのは、その薬が体内で単独で働いているわけではないからである。体内のホルモン動態が普通の人と違う状態の時に薬を使うと、薬効や副作用が逆の方へ出てしまうこともある。


極端な話ではあるが、治療をすれば100人中100人が異なる反応を示す。その100通りを学ぶことが臨床医の務めであり、それは医学書では絶対に学べない。その100通りを学ぶことを「バカバカしい。医学書がすべてだ」と考えるような医者になってはいけない。


高齢者は正規分布に従わなくなる

高血圧や糖尿病、高脂血症、高尿酸血症などの成人病の治療は、合併症があればあるほど複雑になる。一つの症状を治療するための薬が、他の薬の薬効を阻害したりすることもある。
現在ある内服薬の多くは症状を根本的に治療するためのものではなく、目に見える検査データを正常化するための薬である。医師たちはデータを正常化することと各種疾患が起こりにくくなることに相関があると固く信じているが、そもそもデータ正常化=健康状態を意味していないという認識が欠落している。


私は自分の研究で、高コレステロール血症の人はステロイド投与で脳下垂体が過剰反応して、強く抑制されることをつきとめたが、この過剰反応は高コレステロールの治療薬を服薬し、正常値なっていても改善されない(されにくい)ことを知った。つまり、治療薬は根本的な治療ではなく、見た目の血液の検査値でコレステロール値を下げるのみで全体のホルモンバランスの改善には役立っていないようだった。


もともと、コレステロールが高いという時点で人間の体には非常事態が起こっており、その非常事態を収めるために特別な生体回路が回っていると考えていい。その治療薬ではその回路を正常化させることはできていない。


特別な生体回路では人間の生理反応は相関グラフに従うような正常な反応を示さない。だから風邪をひいただけで血圧が低下したり、抗アレルギーの薬で食欲が1か月間全くでなくなったり、と普通ではない反応が現れる。


医者はそうした患者の過剰反応を「ありえない」と一言捨て台詞をはいて無視するという対処方法しかとらないものだ。心因性と断定して精神科送りにもする。
そうではないだろう。高齢者の肉体はそもそも非常事態の宝庫のようなものである。その非常事態を理解しようとしないで「ありえない」で片づけてはいけない。


高齢者は幾重にも重なる非常事態のせいで、AならばXという反応にならない。往々にして医者の理解を超える過剰反応を示す。
「ありえない」「考えられない」「医学書にない反応である」で終わらせるのであれば、この高齢社会を医療は乗り切ることができないだろう。


そもそも高齢者は多くの薬効や生理現象の正規分布には従わないということを可能な限り早急に世界の医者たちが理解すべきである。
そして正規分布に従わない彼らを「稀な例」として切り捨てるのではなく、まれな例こそ解明して見せるという意欲が必要である。それらの研究に挑戦することが高齢者医学研究である。高齢者医学研究は、世界が遅れをとっている。


正規分布の両端の裾からしか医学は発展しない

何度も言うが、統計学を用いた人体の生理の仕組み、薬効の証明などはマイナーを無視することで理論が構築されている。つまりそれらの仕組みに当てはまらない人がマレに存在するが、それらを無視して理論が完成する。
しかしながら「なぜ当てはまらないか?」を追究することで医学は発展してきた。それは今も昔も変わらない。


昔は難病・奇病として扱われていたものが、今では普通に治療できるのは、稀な症例を「例外である」と無視せずに研究してきたからだ。いわば統計学の正規分布の裾における危険水域を研究することで医学は発展した。


しかし、治療現場に携わると医者たちは正規分布の裾を捨てる。治療薬を使っても治らない患者は例外扱いするのである。また、治療薬を使うことで症状が悪化することもある。その場合「なぜ悪化したのか」はもちろん今の医学では解明できない。解明できないから「悪化した理由を考えようとしない」→「患者を例外扱いする」という愚かな医者ばかりがいる。


統計学は緊張→血圧が上がる、というように一対一のシンプルな思考を正当化する。なぜなら100人中99人は緊張→血圧上昇となるからだ。そのせいで、実際には緊張→血圧が下がるという1例を無視し、なぜ下がるのかを考えない。例外から人間の体の仕組みをもっとまじめに考察しようとする医者が少なすぎることに憤りを覚えないだろうか。


例外を無視したシンプルな思考はわかりやすいため、医学書にも掲載されやすく、一度掲載されて常識化すると、それを正そうとする者がなかなか現れない。だから緊張→血圧上昇という稚拙な思考がいまもなお改正されることなく医学書に掲載されたままなのである。


しかしながら実際は緊張→交感神経興奮→血圧・脈拍上昇、というような単純回路で人間は構成されていないのである。人間の複雑な回路を正しく解明するには例外の1例を深く研究していく必要があるのだが、それはとてつもなく困難な道であり、数年の研究で業績が出るものではない。業績が出ないなら出世できないからそんな無駄なことはやらない。教授が提唱したシンプルな理論を後押しする論文を書けば博士号がもらえるから書く。これでは医学が発達するわけがない。


人間には逆回転ギアが常にあることを認識しなければならない

人間には、いや、動物には通常時と緊急時とで生体反応が180度変化するシステムを備えている。
例えば平常時、交感神経の興奮は腸の動きを止める方向に働くが、非常時は腸の動きを促進させ下痢させる。


例えば平常時、交感神経の興奮は血圧を上昇させるが、非常時は血圧を低下させ失神させる。
これらの例は誰もが知っている一般的な常識だが、医学的にその理由は解明することができていない。できていないのに医学書には交感神経優位→腸の動き抑制、血圧上昇と記されている。断言するが人間の神経回路はそこまで単純ではない。


そして最近解明された痛みの仕組みにこんなものがある。
平常時、圧覚、振動覚、位置覚などは痛覚を抑制する。しかし非常時は圧覚、振動覚、位置覚などが痛覚へと変換されてしまうというもの。よって非常時は振動が加わるだけで痛みが強く出てしまう。


これらは平常時と非常時では生体反応が逆に出てしまう例であるが、このような真逆に出る反応は「医学書の内容をことごとく覆していく」ことになる。だから医者たちに受け入れられるまでに時間がかかる。なにせ彼らは人一倍プライドが高い。


真逆に出る例を医者たちはこれまで「例外、頭がおかしい、統合失調症である」などと患者側が変であることにして自分たちのプライドを守ってきた。しかしこれでは医学が発展しない。
例外を研究することでしか医学が発展する道はないのである。例外の患者を統合失調症と診断名をつけて医学書の理論を死守しようとしているのだから始末に負えない。


平常時と非常時を分けるもの

推論だが人間は非常時に小を殺してでも大を生かして最後まで生き残ろうとする仕組みを持っている。
例えば多少の痛みストレスであれば緊張→興奮→血圧上昇、が生き残る道であるが、猛火に焼かれて絶体絶命のストレス→血圧低下→過剰反応を切断→失神となる。過剰反応はおそらく多くのエネルギーを消費するため、それを節約して生命維持に全力を注ぐほうが生き残る確率が上昇するのだと推測する。


猛獣に襲われて生き残った人の話に以下のようなものがある。
「熊に襲われて足を噛まれている時に、不思議に痛みがなかった。これは死んでいく者への神のご慈悲だと思う。そのとき、不思議に落ち着いていられた。」というのである。
これはかなり極端な非常時であるが、人間の神経回路は非常時には生命維持のために切断される仕組みを普通に誰もが持っているはずである。


先ほど述べた緊張→血圧上昇、と平常時は誰もがそうなるが、非常時には緊張→血圧低下の回路を、おそらく誰もが持っていることにたとえられる仕組みである。ただそれが今の医学レベルでは解明できていないだけの話である。


ただし、非常時から平常時へとシフトさせる回路がスイッチオンとなる閾値には大変な個人差があると思われる。その個人差がどのようにして生まれるのかを考えることで現医学は発展する余地がある。遺伝的な原因、環境による原因、食べ物による原因、薬の副作用による原因、疾病による原因などを考えなければならない。
逆に言えば、そこを考えないなら現医学は数百年停滞する。そして今が停滞期である。


危険水域が平常・非常の切り替えを司る

まず医学的な常識の間違いを正さなければならない。私たちの一般的な常識では正規分布の危険水域にある者は異常が起こりやすいと考える。
例えば収縮期血圧が160mmHg以上ある者は心疾患になりやすい。尿酸値が7以上ある者は痛風になりやすい。と考える。
この思考はこれまで正しいと考えられてきたが、この考えが医学の発展を根本的に閉ざしている。


何度も言うように人間の体では、一つのデータ異常が何の結果起こっているのかがわかっていない。血圧が上昇する原因もはっきり解明されていない。実は血圧の上昇は氷山の一角で、他に自律神経の不調が起こっていたり、代謝バランスが崩れていたりする可能性もある。その結果の血圧上昇であり、血圧上昇→心疾患、を心配するよりも、自律神経の不調や代謝異常の心配をしなければならないこともある。
自律神経や代謝異常の不調の場合、例えば血圧が140以上で危険水域に入っているかもしれない。つまり非常時は診断基準値があてにならないと考えていい。


また、尿酸値が高い者は痛風になりやすいというが、この尿酸と痛風の相関も条件が変わると崩れると思われる。
例えば、高血圧と高コレステロール血症が合併していると、尿酸値が6でも痛風が発症するかもしれない。つまり、高血圧と高コレステロールの合併があると危険水域が7以上ではなく6以上になるかもしれないということが言いたいのである。一方、合併症がない者は尿酸値が8以上でも何も起こらないというようなこともあるかもしれない。


現医学では、このような「合併症があると危険水域が動く」という発想がない。しかしながら高齢者は合併症の宝庫である。4つも5つも6つも異常事態をかかえている。すると危険水域がどの辺にあるのかは、一般人の正規分布から作った正常・異常を見極める基準では判断ができないのである。さらにこの逆も言える。高齢者から作った診断基準を若年にあてはめるべきでもない。


今は高齢化社会であり、これまでは「高齢者の得体の知れない病状を例外」として扱ってきたが、そうはしていられない現状になっている。合併症があると危険水域が激しく変化し、生体の恒常性を保つための安全域が極めて狭くなることを研究していかなければならない時代になっている。にもかかわらず、これまでの医学書の診断基準で人を診察する医者の態度は、決して誉められるべきものではない。


医者の一人一人が、新しい診断基準を何千通りと発見していかなければならない時代に突入している。
危険水域は、遺伝子によっても、環境によっても、食事によっても、服薬によっても変化するわけだから、診断基準は個人個人で変化させる必要がある。だから何千通りと必要になる。これまでの医学はメジャー(正規分布)のみを扱い、マイナーを例外とみなして切り捨ててきた。そうした過去の医学を猛反省しなければならない時代である。もちろん私はそういった個人個人の特徴を何通りも考えて診断治療をしている。だから治せないものを治せるのである。


ステロイドと下垂体機能

私は高齢者に安全にステロイドを使用するために、ステロイド投与後の副腎や下垂体のホルモン動態を調査した。
調査にあたり、私はまず、「副作用が出ないレベルのごく少量のステロイド」で調査していた。当初私は「ごく少量のステロイドでは副作用が出ない」ことを主張したくてホルモン調査(コルチゾル・ACTHの調査)を開始したのだが、状況は一変した。ごく少量のステロイドを単発(1回キリ)で使用しても、ACTHが0になってしまう症例が散見されたからである。


もちろん、ほとんどの者は少量のステロイドではACTHは正常であった。だが、まれに例外的に下垂体が過敏に抑制されてしまいACTHが0になるようである。そしてACTHが異常に低下する者と高コレステロール血症とに相関がみられることを偶然に発見した。


つまり、高コレステロールという状態は、下垂体にとっては非常時であるということ。非常時にステロイドが少量投与されると、下垂体機能が激しく抑制されるのである。
少量のステロイドは体内からも分泌されているわけであるから、高コレステロール血症の者は自分の体内から分泌されるステロイドによって下垂体機能が抑制される機会が増えると推測した。


高コレステロールがあるとステロイドに対する安全域が狭くなるようなのだ。
今回のようなコレステロールとステロイドの関係は私が偶然に発見したものだが、このような事例はコレステロールに限らず、電磁波や環境ホルモンなど何千、何万通りとして存在するはずである。


個人個人で危険水域が変化することを調査しはじめれば、今までの医学知識がどれほど役に立たないかを思い知らされることになる。診断基準など単なる目安でしかないとわかるだろう。医学書の権威も丸つぶれになるが、その屈辱を乗り越えられる医者だけが今後の医学の発展に貢献できるわけだ。


今後、教授に就任する医者たちにはぜひ乗り越えていってもらいたい。現、教授職に就いている者にそれを期待していない。彼らは統計学を正規分布をかたくなに信じ、それらに囚われているからだ。例外を研究しようとする者以外に今後の医学を背負ってもらいたくない。


教授にとっては例外だが患者にとっては全て

何度も述べるが、統計学的処理をして正常と異常を区別することは例外を切り捨てることになる。
「おかしいですねえ、その症状はほぼ間違いなく痛風の症状だと思うのですが、尿酸の値は正常ですねえ」というようなセリフが整形外科外来でよくきかれる。しかし、おかしいですねえ…の理由を研究する者はいない。それを研究しても答えが出ないとわかっているからだ。よってこの患者は例外とみなされそこで診療はストップする。


だが患者にとっては例外ではない。自分に起こっていることでありそれが全てである。
よく考えると、「おかしいですねえ」というのは今の医学書の診断基準に照らし合わせているから「理解不能」となるだけの話である。今の医学書は不備だらけであるとしっかり認めれば「おかしいですねえ」というのは医学書のことを指すということがわかる。


そこで「おかしいですねえ」のまま捨て置き、思考を停止させる医者がいると医学は発展しない。医学書にないことは認めるな!的な考え方をしている者は医者の風上に置いてはいけない。だが実際は国立大学出身の医者はそういう考え方をしている者が多いと感じる。おそらく役人根性である。


人間の体は医学書で考えられているものよりももっともっと複雑である。例外を切り捨てる態度で患者に接していると、いつまでたっても真実は見えてこない。
真実は複雑であり、今のあなたの頭脳でいくら考えても答えなど出ない。誰もがそう思っているだろう。しかし違う。複雑なものもいくつもの因果関係に留意して忘れないでいるとそのうちつながっていく。つながっていくと複雑な糸の絡みが見えてくる。大切なことはその糸の絡みを見ようとするかしないかである。


私は教授の椅子に座ってふんぞり返っている者たちが、その糸の絡みを見ようとしてこなかったことをよく知っている(一部は素晴らしい教授もいるだろう)。そうした者たちをのさばらせておいては、この高齢化社会を乗り切れないだろう。
まずは、これまで絶対視されていた統計学を疑うことから始めることだ。