療養型医療施設の患者がとうとう爆発した

私は異端児医者。生計を全てパートで立てている。パートはいつでも首を切られる。そしておそらく私は日本一首にされた回数が多いと思う。その緊張感の中で毎日生きている。自分を守る武器は治療の腕一つ…その崖っぷち感がたまらない。自虐である。
先月私は新しいパソコンを購入した。だから今月はお金に困っている。そこで今月は一度も行ったことのない病院に臨時の外来業務を入れることにした。整形外科医のパートは案外いい日給がもらえる。一日で8万円だ。
さて、今日はとある見知らぬ病院の外来勤務。ここの常勤の整形外科医が臨時の休暇をとったために私がそこにスポットで入ることになった。だからここに来る患者の全員が私と初顔合わせ。普通に診療をしていたがとんでもない患者がやってきた。
まず、カルテが置かれる。そのカルテの表紙のところにピンク色の紙がはさんである。この紙にはどういう症状で病院にかかりたいか?が記載されている。その紙に書かれている内容にぶったまげた。
「どこが痛いのですか?」の質問に対し、「首、両腕、両わき腹、背中、腰、両脚、両膝」と書かれてあったからだ。これが普通ではないことは素人の人にでもわかるだろう。診察してもらいたいところが実際にこれだけあったとしても、普通なら遠慮して“もっとも痛いところ”を3~4箇所くらいにとどめるものだ。
転落事故にでもあわない限り、これだけの場所が一度に痛くなることなどあり得ない。相当長い間放置しておいたからこそ痛い部分が蓄積してゆきこれだけの箇所になったわけだ。そういう場合、患者自身が放置しておいたという罪悪感があるのでここまでバカ正直に診察してもらいたい場所を書くことはない。
まあ、こういう書き方をする人の特徴はだいたい決まっている。医療、家族、社会、病院などに積年の恨みを持っている人が多い。恨みと痛みが強いために常識がぶっとんでいることも多い。だから我々はこういう訴えを書いてくる人には“まともに取り合わない”という防衛策をとることになっている。だから患者にアドアイスするなら、痛いところを全部バカ正直に記入しない方が賢明である。
しかし、私は違う。何度も言うように私は初回から全力を尽くすことを信条として医者をやっている。患者が何十箇所と痛みを訴えたなら、その日のうちに何十箇所同時に治療し、気が済むまで徹底的に行う。相手がどんな人種であろうとそんなことは関係ない。ただ全力を尽くすのみ。
付け加えておくが、たくさんある痛い部分を一度に全て治療することは現在の保険制度は認めていない。ブロック注射は1日に1箇所の決まりがあり、それを超えて治療しても料金を請求できないことになっている。つまり私がやろうとしている全箇所への治療は保険制度が認めていないことだということ。どれだけやっても一定の金額しか請求できないので、やればやるほど病院側が赤字をくらうということ。だから私のような医者は採算ベースから言うと歓迎されない。
いろんな場所が痛いのなら「全身に効く痛み止めを飲んでください」で終わるのが普通。つまり、痛い場所をたくさん書けば書くほど根治的な治療はしてもらえないのだ。
さて、今回の患者は普通ではないのは、それだけではなかった。カルテに紙が何枚かはさんであって、そこに「介護療養型」と書いてあった。
この意味がわからない人は前項目を読んでみるといい。介護療養型施設に入所中の患者は、様々な治療制限がついていて、積極的な治療のほとんどが受けられないことになっている。つまり、無治療地獄に入れられている患者だった。
介護療養型施設に入所中の患者は痛みを訴えてもまともに治療してもらえないことが取り決めになっている。もちろん患者はそんなこととは知らずに入所している。だから何を言ってもまともに治療してくれない医療従事者たちに激しい怒りと恨みを持っている。
たいてい、その恨みと怒りは数年の間に燃え尽きてしまい、あきらめと絶望となるが、たまに恨みと怒りを永遠に叫び続けるパワフルな性格の患者がいる。今日ここに来た彼女はそういうタイプの人だった。
あまりにもうるさくわめき叫び続けるものだから、施設側の人が困り果てて病院を受診させたというわけだ。無治療地獄から自力で這い上がってきたパワフルな高齢者と言ったところだろうか。ま、医療従事者側からすれば天下の嫌われ者だ。
彼女はこの病院の経営者が経営する傘下の施設から送られてきているようだ。これはおもしろい。なぜなら、私が彼女に積極的な医療行為をすれば、それを国に請求できない(意味が分からない人は前項参)。彼女が治療費の1割を支払い、9割が施設の自腹となる。ここの病院はどちらにしても取りはぐれはないが、施設と病院の経営者が同じなのだから結局治療すればするほど赤字となる。つまり、彼女への治療はサービスということだ。
通常病院経営者はサービスなどしない。しかし施設でうるさくわめきちらす患者に対してはいやいや治療を施す。彼女はそうやって今日の診察にこぎつけたようだ。それほど彼女の恨みは厳しいということだ。怒りに満ちている。今すぐにでも人にかみつかんばかりの猛獣。ここまで彼女を怒らせたのは施設の責任だから仕方がないだろう。
「工藤様、今日はどうなさいましたか?」まずは定型句を言う。 「痛くて痛くて一睡もできません。死にたいくらいです。」 いきなり過激な答えが返ってきた。 「うんうん、わかりますよ」
私には本当に彼女が死にたいという気持ちがわかる。施設が無治療地獄だということも知っているし、第一彼女の訴えている痛みを治療できるほどの腕がある医者などいないだろうことも知っているからだ。
だが、わかりますよと言えば「こんな若造にわかるわけがない」と彼女に思われることもわかっている。だが本当にわかるのだからそう言うしかない。
「で、首と両手と背中と腰と両脚と両膝が痛いのですね?」 「わき腹も痛いんです」彼女はとても不機嫌な顔でそう言った。
「わかりました。でもそれだけたくさんの場所が一度に痛むわけがありませんよね。今日初対面の私にいきなり全部の箇所を痛いと言う前に、どうして今まで、あちこち痛いことを他の医者に相談されなかったのですか?」
「いくら言っても誰も何にもしてくれなかったじゃないですか…」激しい怒りの口調で彼女はそう訴えた。
「なるほど、いろいろと訴えて診察してもらって、それでも痛みがとれなかったわけですね。では他のお医者さんが治せなかったその痛みをどうして私が治せると思うんですか?何度もお医者さんにかかってだめだったら、この痛みは仕方ないとあきらめることはしないんですか?」
私は少しこの患者をからかってみたかった。なぜなら世の中には現在の医療でも治せないものが五万とある。にもかかわらず治して欲しいということはないものねだりでしかない。ないものねだりというわがままをしているのだという自覚があるのか?彼女に問いただしてみたかったのだ。世の中の多くの高齢者は痛みを我慢しているというのに、彼女のわがままだけをうるさいから聞くというのであればそれも私にとっては正義ではない。
「痛くて痛くて我慢できません。死んだ方がましです。」 まあ、そうだろう。痛すぎて黙っていられない。それほど痛い。
私は意地悪な質問をしたが、彼女を一目見たときから、今日、彼女が抱いている痛みは全て取り除くという決心をしている。彼女がどんな患者であろうと痛みをとってやるつもりでいる。そして痛みを取り除く自信も腕も持っている。それを出し惜しみなどしない。だからこそ、ちょっとからかってみたかったのだ。
だが、彼女が本当に治療を希望しているのなら、こんな恨み節を医者に叩きつけるような態度はダメだ。私は彼女がどんな訴え方をしても治療を全力でするが、普通の医者にこんな態度で臨めば治療をしてもらえるわけがない。だから今後のことを考えると彼女を説教しなければならなかった。
「工藤様、日本の医療は一度に全部の箇所を治療することを制限しています。だから痛いところをこんなにたくさん書くと、治療してもらえなくなるんですよ。本当に治療してもらいたいのなら、一番痛い箇所と2番目に痛い箇所の2箇所くらいにとどめておかないとダメです。わかりますか?」 「日本は最低ですね」 まあ、こう来ると思った。
「いいえ、日本は世界の中で医療はとても優遇されているんです。そんなことを言うと世界の貧しい国の人たちに恨まれますよ。今の治療を受けられるだけでもとても幸せなことだと自覚しなければなりません。」 「じゃあ、死ねってことですか?」
「その通り。そういうことです。高齢者がこれだけ増え続けていること自体が異常なんです。」 ここまで断言すれば彼女は怒るか?と思ったらその逆だった。 「先生、いい男ねえ。」 「は?」
あまりにも意外だった。彼女の態度が急変した。もしかして彼女が私のことを試していたのかもしれない。まあいい。
「とにかく私は他の医者とは違います。今日、工藤さんが痛いとおっしゃったところは全て治療します。その前にレントゲンをとりに行ってください。」 そう言ってレントゲンに行かせた。
間もなくレントゲンが出来上がった。私はそれを見てどの神経が損傷を受けているのかおおよその予測をたてる。そしてその神経の部分にていねいに注射をしていく。それはルートブロックと言うもので他の医者に外来でさっと出来るほどなまやさしいものではない。頚椎、胸椎、腰椎と順に神経根を狙って注射してゆく。そして最後に両膝に注射して治療を終えた。 「どうです?痛みとれたでしょう?」 「あら、本当、軽くなった。嘘みたい。」
彼女はあまりに即効で痛みが取れたことに驚いていた。 「でもなんだかくらくらする」 「それは首の神経に注射したせいです。注射の副作用ですがすぐにとれますから辛抱してください。」
「足も痺れてる…」 「それもブロック注射のせいです。治療がよく聞いている証拠ですから安心してください。」
そして私は彼女に言わなければならないことがあった。 「私はもうこの病院には来ません。今日は臨時で来ただけです。」 「ええ~っ、どうして?先生はどこにいるんですか?」 「千葉のほうです」
本当は都内だが、彼女が私のところまでは来れないことを強調するためにそう言った。 「どうすればいいんですか?」
「私がした注射はおそらく今ある痛みを3割くらい改善してくれると思います。ですがそれ以上は無理です。あとは辛抱してください。今日限りの治療であることを残念に思うのではなく、今日私に出会えたことを幸運だと思ってください。」
「来週はどうすればいいんですか?」 「来週は常勤の先生がおられます。ですが、私がしたようなことをその先生にしてもらおうと思っても、絶対にやってもらえませんから要求しないほうがいいです。この注射は私にしかできませんし、痛いところ全てに注射するということも常識的に考えてあり得ません。私だからやったんです。」
「来週は先生はいないんですか?」 彼女は気が動転しているのか同じことばかり繰り返していた。
はっきり言って私のような治療をする医者がいたら、普通の医者にとっては大変な迷惑になる。私と同じことを他の医者ができるはずもなく、しかし患者は私にしてもらったことを次の医者にも要求するだろう。そのとき、私はその常勤の医者にたいそう恨まれる。その医者には「得体の知れない注射をして帰った無法者の医者」としか映らない。なぜなら、私の注射は教科書をくつがえすようなものばかりだから。無法といわれても仕方がない。
私の存在が他の医者にとって迷惑になることもわかっているから、私はいつも「他の医者には私の治療を要求しないで欲しい」と帰り際に念を押す。
まあいい、この病院は今日限りで二度と来ることはない。同業の医者に嫌われようとも知ったことか…。ただ目の前の患者を全力で治療する。それだけだ。