カルテは読めない

私は異端児医者を自覚している。明らかに接客から治療までその姿勢が他の医師たちとは違う。患者の病気を診るのではない、人生を診ようとしてしまう。その首の突っ込み方も半端ではない。だが、私と初顔合わせの患者はそれを知らない。
毎日同じ院長先生しかいない小さな医院以外は医者が曜日によって異なるのが普通だ。つまり曜日が変われば医者が変ってしまい患者の情報が医者から医者へと伝わらないことがよくある。 痛みに侵され仕事場でも“しっかり働かない”の烙印を押されているような患者の場合、精神がかなりやばい状態になってイライラしている。だから医者との信頼関係を築けないことになり、患者自身が損になることが多々ある。
こういう患者は曜日指定を守ることはない。病院を24時間コンビにストアだと勘違いしている。治療は医者の仕事。だから自分から治療に協力する必要もない。こんな考えに侵されているから一人の医者にじっくり診てもらうということを最初から考えもしない。
私は違うが…と最初に述べておくが、医者は何人もの医者に二股、三股する浮気者の患者を非常に嫌う。それはもともと医者たちは自分独自の治療スタイルを持っていて(例えば週に何回通わせるか?運動のアドバイスをどうするか?お風呂に入っていいか?など)その意見に食い違いが出ると医者同士の不信を生み、さらに患者の不信を生むことが重なり、診察中に誤解とトラブルが多発するからだ。特に患者は精神的に追い込まれている人が多いので医者の発するささいな言葉が引き金となり口論になることを良く知っている。
実際にそれで殺された医師もいるし、「おまえの子供もどうなるかわからねえぞ」と家族を脅迫しスゴむ患者もいる。
もともと、医者を選ばずに(曜日を考えずに)自分勝手に来院する患者はそういうトラブルを起こしやすい要素を十分に抱えている。そんな患者を医者が歓迎するはずがない。踏み込んだ治療もしたくないという心理が生まれる。だから同じ病院内での医者の二股、三股は患者に大きな不利益をもたらす。カルテを見れば患者が何曜日に来院しているかがわかるから、二股する患者はすぐにわかり、即刻医者に毛嫌いされる。
さてそういう患者が私の外来の日にやってきた。初顔合わせの患者のカルテが私の目の前に置かれる。私はまずカルテの表紙を見る。どんな病名でこの病院にかかっているかを調べるためだ。まず病名がわからなければ診察のしようもない。
しかし、この病名が“くせもの”だということを患者は知らない。その理由は実は意外なところにある。 日本の医療は保険制度がしっかりしているおかげで貧乏な人でも安い料金で治療してもらえる。ただし、それは自然に発生した病気に対してだけだ。つまり、殴られた怪我、病気でもないのに健康状態を調べるためだとか、病気の原因がはっきりしないものに対しては国が治療費を払いませんという意味になる。だから、例えば血糖値を検査したいのなら糖尿病でもないのに“糖尿病”という病名をつけて検査をする。肝機能を調べるには“肝炎”という病名をつける。手が痛ければ原因がはっきりしていなくても“腱鞘炎”という病名をつける…というように、ダミーの病名をつけるのが習慣となっている。最近ではこうしたダミーを防ぐために「疑い」という病名をつけることを義務付けているが、だからといって状況が変わったわけではない。もともと診断基準が全ての人にきっちりあてはまるものではないからだ。
  今回私の目の前にやってきた患者は今日私と初顔合わせ。患者の情報をカルテから知ろうとするが、ダミーだらけの病名がずらりと並んだカルテの表紙を見ても、真実の病名がわからない。病名が10個以上ついている。だから「今日はどうなさいましたか?」とまずはこう訊くしかない。
患者は一つの病気で何度か通院しているから「自分の病気のことはわかってもらえている」と思っているかもしれないがそうではない。私はカルテを今見たところだ。一人当たり1分以内でカルテを読まなければならない医者にとって患者の病気の過去をさかのぼって理解している時間などない。そしてカルテは想像を絶する乱筆で書かれていてまともに読むことさえ難しい。他の医師が書いた汚い、読めない字だ。
にもかかわらず 「今日はどうなさいましたか?」 「カルテに書いてあるでしょう!」
といきなり医者に喧嘩を売ってきた。もちろん患者は痛みや社会的ストレスで正気を失っている。それはわかる。しかしこういう態度をしていれば損をするのは私ではなく患者だ。私はこういう患者にはカルテを実際に見せてあげる。
「これはあなたのカルテです。見てください。ここに書いてある字が読めますか?汚くて読めないでしょう?他の先生方の字はこれほど汚いから実際カルテは私にだって読めないんです。しかもこれだけ分厚いカルテを最初から最後まで読んでいたら何十分かかると思いますか?まともにカルテを解読していたらあなたを診察する時間もなくなってしまいます。だから素直に症状を教えてください。」
私も好戦的に患者を威圧する。大声も張り上げる。必要なら何十分でも説教する。それは私にはこの人の人生が見えるからだ。
保険証からおおよその職業もわかる。医者を信じていないことも、今はストレスでまいっていることもみんなわかる。だからこそ放っておけない。このままではこの患者はリストラされて社会から葬られる。だから必死になる。そういう気持ちは最後には患者に伝わると信じたい。
さて、そんな読めないカルテなのだが医者を何年もやっているとカルテの行間を読むことができるようになってくる。
カルテは保険請求をするための大切な記録なので、どんなに汚い字で書かれているカルテでも「どんな処置や投薬をしたか」だけはしっかりていねいに掲載されている。患者の症状の部分は字が汚くて読めなくとも、または、医者がしっかり症状を記載していなくとも、処置は読める。だから今までやってきた処置や投薬記録から患者の病名、病状を逆に推測していける。ただ、そうであっても、患者の情報を短時間で全て理解することは難しい。
患者と医者、受けてきた教育から生活環境、考え方、主義主張…それらが全く異なる人間同士が理解しあうことは患者が考えている以上に難しい。しかし、理解しようとしている医者でなければ患者を苦痛から救ってあげることはできない。苦痛の問題は痛みだけではなく、心の痛みでもある。そして病気やトラブルから逃げてばかりいた患者の甘えでもある。
あるときはその甘えた根性を前に向かせることが治療だったりする。私が言う“全力で治療する”とは患者を前に向かせるために説教することも当然含まれている。そんな患者の甘えはカルテのどこを見ても記載されていない。私はカルテに書かれていない患者の人間性を診ている。そこをおざなりにした治療では何度通院させても治らない。
一通り症状や近況、仕事復帰の意思などを訊ね、おおよその病態がわかって…さてここからどうするかが問題だ。今日のような患者は今までの人生、自分を甘えさせてくれる人をずっと探して探して今も尚探し続けて生きている。病気は甘えでは治らない。
この患者は交通事故で追突されたのが原因で首、背中、腰の痛みを訴えている患者だったが、症状があまりにもとれないことに加害者への恨みを強く抱えていた。だから通院する面倒さに加害者を恨み、医者とそりが合わないと加害者と医者を恨み、職場でリストラされそうであると会社側と加害者を恨み…というような負のスパイラルが回っている。そこを断ち切るためにはこの患者が不満やストレスの原因を加害者に向けていてはダメだ。
自らこの病気を治療しようとする前向きな取り組みが必要になる。他人を恨んでいたのではそういうことは一切できない。私ができることはまず、この痛みを取り除いてあげることだが…
「あなたのその痛みを取り除くには注射が一番効果的でおススメです」 「一時的に痛みを抑えるだけですか?」 治療に前向きでない人は痛い治療には非協力的であることはいうまでもない。
「一度の注射でかなりすっきりする人もいますよ」こう言っても顔は乗り気ではない。 「でも、治しているわけではないんでしょう?」 「もちろん治りにくい人もいます。自然治癒もあります。ただ、痛い状態を続けて自然治癒させるか、痛くない状態を続けて自然治癒させるか? 注射をすれば楽に自然治癒させることができますよ。」
まあ、私は注射をススメてはいるがお金儲けのためではない。むしろ注射なんてしたくない。ただ、このような患者の場合、注射が負のスパイラルを断ち切るための道具になることが多い。 第一、治療に前向きにさせる効果がある。誰かを恨んでいれば痛みがずっととれずに残る。患者が自分で治すと決意したとたんに痛みが改善方向へと向かう。注射はその一つのきっかけとなる。
ここまですすめても結局この患者は注射を断った。いやなことから逃げてばかりいたこの患者は、やはり最後には治療から逃げた。またか… まあいい、困ったら私のところに来ればいい。何とかしよう。だが再度言うが、こういう患者は私のような本物の医者のところには二度と来院しない。おそらく、甘えさせてくれない、自分の意のままに操れないからである。