難病を治そうとする者の心の在り方(医住心)

はじめに

深海に住む魚が海面近くに移動するだけでその体は崩壊し、魚は陸に上がればすぐに干からびて体は崩壊し、ペンギンが熱帯地方に住めば体は崩壊し、マグロは泳いでいなければ病気になり、鳥は横になって眠ると病気になり、人間は手を使って四つん這いのまま生きることを強いられれば骨格が崩れて病気になりやすいでしょう。


このように生き物は「生活様式に宿命を帯びた遺伝子」をもち、その遺伝子に厳しい制約を受けながら生活を送っています。


遺伝子の制約は個体ごとに異なり、ある者は激しいスポーツを行っても全く壊れない骨格を持ち、ある者は普通に歩いて暮らしているだけで関節が変形し崩壊していきます。人それぞれが異なる遺伝子上の制約を持っているのですが、他の人々と同じ生活をすることを望むがあまり、制約があることを無視し、体から発せられている警報(痛みなどの不調)を無視することにより様々な病気をひき起こします。元を正せば、自分に与えられている遺伝子の宿命を受け入れないために肉体からの報いを受けてしまうわけですが、その報いを薬でごまかし、制約を無視し続けることで引き返すことのできない難病地獄に落ちていく場合があります。こうした難病地獄から引き戻す最善の策は遺伝子上の制約に従って生きることです。それは他の健康な者たちと異なる人生を送ることを意味し、人間として生まれてきたことを悔やむほど屈辱的で自尊心が傷つくかもしれません。


しかし、そこに新しい価値観を見いだし、他と異なる自分を見つけ出し生きることができれば、健康を保ちながら幸せに生きていくことができます。今の病気が難病であればあるほど、心の在り方が問われることになります。他人の健康をうらやみ、自分の体を憎み、生き地獄に落ちて行くか、他とは異なる自分の価値観を見いだして健康に幸せに生きるか、その分かれ目が出現します。


残念なことに年齢を重ねるほどにその分かれ目に立たされる機会が多くなります。すなわち、心の在り方を問われる場面に歳を追うごとに遭遇することが先進国の国民の宿命です。逆に言うと、種々の病気は「実は己が作りだしている」という真実を受け入れることで病を回避することができます。しかし、それには心の在り方が問題になります。


幸運なことに今生きている環境に自分が持って生まれた遺伝子がとても似合っている方はどんなに体をぞんざいに扱おうとも肉体はなかなか壊れません。不幸なことに生まれた時代・環境・場所と遺伝子が似合っていない場合、生きる試練を課せられるでしょう。しかし、そこにはあなたにしかない価値観が生まれ、その価値観をまっとうすることで悔いを残さない人生を送ることができます。健康であっても悪事を働き、人の悪口をいい、嫉妬心にかられた悔いを残す人生を送る人もいます。


難病を治すには心の在り方が極めて重要です。西洋医学ではそうした「一人ひとりの心の在り方」を全く無視して画一的に治療するがゆえに、大きなリスクに患者を飛び込ませ、そして生き地獄に落としてしまうことがしばしばあります。密医学では心の在り方に治療の重きを置き、肉体の生き地獄から真に救い出す方法を模索します。


病気は「縛り修行」

病気は24時間絶え間なくあなたに課せられた試練です。糖尿病の人は炭水化物制限という縛り、不眠症の人は「くよくよして不安におびえずネガティブな感情に支配されないようにしなさい」という縛り。その縛りを破ると苦痛を与えられるという試練です。そうした病気に縛りを受けることは修行僧の毎日の修練よりも厳しいものとなるでしょう。その試練から逃げない覚悟ができたときに心が一歩進み病気を克服するための土台が出来上がります。


医学十住心

日本が世界に誇る哲学者・超能力者・空海は「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」に仏門を目指す人間の多様な価値観や心の在り方を示しました。密医学では健康に対する心の在り方が極めて重要ですので空海の十住心論(十段階の心の流動性)をお借りして健康に対する心の在り方を考えます。10段階の心の在り方について語ろうと思いましたが、私自身が悟りを開けていませんので、自分の力量で考えが及ぶ第3段階までについて解説したいと思います。


第一医住心 本能のままに生きる心

凡人は名誉や評判にとらわれ、これを守るために自分の限界を越えて働き、試合で勝ちたいがために体力をわきまえないで練習をし、体が悲鳴を上げているのに「それを無視することが立派で強い人間である」と信じて疑わず、軽率に自分の体を壊していきます。地位や名誉や収入を短期間で上げることに執着し、自分の体を酷使します。


人それぞれ、遺伝子に決められた分があり、分をわきまえずに短期間で結果を出そうとして体に負担をかけ、後戻りができないほどのダメージを体に作ってしまいます。


遊びたいがために睡眠時間を削り、お金が欲しいためにリスクの高い仕事をし、それを誤魔化すために毒となる薬を飲みます。こうして自業自得の病気を作り、病院へ行き、「こんな病気も治せないのか!」と医師に暴言を吐きます。そして瞬時に治せない場合は医師に対して誹謗中傷します。必死になって治そうと手を差し伸べる者にさえ「すぐに治らないこと」に不平不満をいい、治療者の「治して差し上げよう」とする心をくじきます。


「休養をとりなさい」という肉体からの忠告に怒り、真の原因が自分にあることを諭されると諭した治療者に激しい憎悪の念を抱き治療者を傷つけることを全力で画策します。


常に「自分にとってもっとも楽」な治療法を選びますので「これを飲めば治る」「1日1分で治る」などという誇大広告に惑わされ続け、そして気づくとお金を莫大に消費し、本当に治さなければならない治療にお金をかけることができなくなって意気消沈します。


素早く治ることを強欲に懇願し、治療者に精神的な圧力をかけるあまり、治療者は薬の量を増やしたり、奥の手の薬を使ったり、危険であっても効果を優先させた治療を行います。


そのため予期せぬ副作用や事故が起こります。症状が悪化するとすぐさま裁判を起こします。治療をせかして圧力をかけた因果であることを認めることはなく、その責任を全て治療者側になすりつけて脅し、慰謝料を請求します。


世の中はあなたからお金を巻き上げるために「脂っこくて、濃い味で、色華やかで、いい香りがし、珍しい組み合わせの食材で好奇心をくすぐる」食品であなたを誘惑します。その誘惑に誘われるままに食べ、そして楽しくない現実社会を紛らわせるために食欲を満たすことで代償させ、栄養過多となり肥満や成人病をわずらいます。


まことにこうした欲望や邪心を捨て去らなければ、慢性的な病気を治すことはできません。このような修羅場に住む人々の心を第一医住心といいます。修羅場の現実から目を背けないことでこの第1医住心から解脱できます。


第二医住心 人の道に目覚めて道徳に従って生きる

自由奔放で欲望まみれで邪心を抑えずに生きていた者が大きな病気に遭遇し「健康を害したのは自分のせいである」ことに気づき悔い改めます。


肉や魚など動物を殺生して得る食べ物はなるべく控え、節食することで食べ物を無駄に捨てることをやめ1日に必要なカロリーだけをとろうと考えます。


自分の健康上の弱点を知り、他人に言われたままの健康法を試すのではなく、自分に合った自分独自の健康法でしか自分を守れないことを知ります。


仕事で無理をして評判を上げることよりも、コツコツまじめに働いて健康を害さない範囲で仕事をこなし、健康の価値がわかるようになります。価値観の変化です。雇い主との価値観の相違があれば職を変える勇気も持ちます。


治療をしてくれる者に敬意と感謝の意を持つようになり、少しでも軽快した場合は「先生のおかげです」とお礼の言葉をいえるようになります。自分の遺伝的な弱さを知ろうとし、病気のせいではなく自分のせいであると自覚できるようになり、それを治すためにいろいろと治療法を勉強するために書物を読みあさるようになります。


なかなかよくならない場合はその原因がどこにあるのかを考えて改めようと行動を起こします。また、治った後は予防に努めようとします。


医師に言われたことを盲信的に信じるのではなく、自分の体の特殊性を考え治療の微調整を自分の責任において行います。そのためにも多くの書物文献を読み勉強します。常に多くの知識人の意見に目を通し、最終的には自己責任で治療を選択して行きます。


西洋医学で定められているガイドライン以外の治療法を試してくれた先生には感謝してもしきれません。そのような感謝の気持ちを強く持ちます。


自分の責任において治療法を選択していくことは「医師を信じる心」から外れているのではないかと考える方も多いでしょう。そうではありません。担当医をその地位や名声で盲信することは非常に危険です。信じるべきなのは自分の病気のことを調べ、自分の遺伝子的な弱点も知り、その上で担当医の行おうとしていることをよく調べ、そうした労力をおしまずかける自分の力を信じなければなりません。その上で担当医を信じるのであれば、そこは最後まで信じて任せきるのも一つの方法です。


同じような病気で苦しむ患者に対して、治療の選択材料を提供して差し上げます。しかしながら治療のおしつけは相手への迷惑となることも悟ります。万一、聞く耳がある患者に出会えば、自分の経験に由来するもっともよいと思われた治療法を教えてあげます。


しかしながら、この第二医住心に住む者は依然として目に見えるものしか見えていません。真実を見抜く眼力はついていません。一人の治療者を師と仰ぎ、信じきる力もありません。ですからどれほど医について学んでも真の治療者と出会えるかどうかは運任せにならざるを得ないのです。これが第二医住心に住む者の限界です。


第三医住心 凡人が神や天を仰ぐ心

信じる者は救われると言いますが、医療は「誰を」「何を」信じるかによって生き地獄となるか天国となるか、人生が極めて大きく変化してしまいます。その影響力は「寿命の伸び縮み」はさることながら「まさに痛み地獄を現世で味わい自殺選びたくなる」ほどに激しい場合や「一生車イスの生活を強いられる」「植物人間になったまま器械につながれる」ことになる場合や、「本当は死ぬはずだった命が救われる」ことまで、影響力があまりにも大きいものです。


ですから医ほど時・運・縁の要素が強いものはありません。現在は、医に関する情報があまりにも多く、しかも嘘や誇大広告まみれになっていて、何を信じればよいのかが全く読めない時代になっています。ですから、人生を救うことになる真の医と出会えるかどうかは「真実を見抜く眼力があるかどうか」にかかってきてしまいます。


「信じる者は救われる」以前に「真実を求めようとする心があるかどうか」で人生が変わります。凡人は真実を見抜けないがために、どれほど精神を修業し、どれほど欲を抑え、どれほど善行を行い、どれほど神を敬っても、「真に自分を救える医」に出会えません。


人は安心を強く欲しがるがゆえに自分の「真実を追究する目」を養う修行をするのではなく、ただただ目の前にある偶然で得た超自然的な力を妄信的に信じるという心の弱さを持っています。その弱さを克服していない人が「信じる力」をどれほど神の前で示しても、神は(神がいたとしても)救ってあげることができません。そもそも信じているものが「誰かが作った罠」であることが多いからです。「罠」の中には「奇蹟を起こせる能力がある者」が実在していることが多く、神がかりなことを目の前でおこすので凡人は一瞬でその「罠」にはまります。凡人は「神ではなく悪魔でさえも奇蹟を起こせる」ということを考えず、能力そのものを善と考えてしまいがちです。またマスコミは「神の手を持つ医師」を取り上げ、神がかりと言えるほど高度な医療技術を誇大広告しています。


しかし、その卓越した医療技術に出会えるか出会えないかの前に、「その技術をこの病気に用いるべきか用いるべきではないのか」の根本が間違っていれば意味がないということに気づきません。適用が間違えば神がかりな技術でさえ無となります。


西洋医学の診断力をもってすれば「診断が間違っているはずがない」と凡人はそう思います。それは西洋医学への盲信であり、盲信の中にいる者を私たちは救ってさしあげる機会がありません。


真に治せる医療技術は目の前にあります。なぜならば真に治せる者は病気に苦しんでいる者の目に触れるところに常にいようとしているはずだからです。しかし、凡人にはその存在が見えません。なぜなら真に治せる技術は、西洋医学の権威を落とし、製薬会社の株価を落とし、国家の安定をもゆるがす原因になりうるため見えないように画策されるのが常だからです。強欲な者たちによって真の医療技術は世間には出ないようにされることはいつの世も過去も未来も当たり前のことです。ですから真に治せる者が手を差し延ばしているのですが、真実が見えていない凡人はその手を振り払ってしまいます。盲信は全く何も信じない者よりもさらに軌道修正ができません。選んでいる医療が「地獄への片道切符」であることが見えていても、盲信している者を救い出すことはできないのです。結局、盲信は罪深いという真実に突き当たるわけです。善を行う力、修行をたやさない精神力、法や秩序を守る態度、そして信じる力、などが兼ね揃っていても、信じたものが真実ではない場合、報われることがありません。第三医住心を持つ者は信じる心を持つことができるのですが、何を信じるかの選択を誤るという限界があります。


第四医住心 一切の煩悩を断じる


第五医住心 十二の因縁をその根本まで抜き去り迷いをなくす


第六医住心 縁のない多くの人々にまで慈悲を施す


第七医住心 中道に立ち誤った見方を絶ちきって空を感じる


第八医住心 すべての現象は一つにまとめられる


第九医住心 細胞の心と人の心は同じものである限界があります。


第十医住心 万物は真実のあらわれとして、大きな歓びをもって受けとめられる

第四住心以下、私の知恵が及びません。