痛み治療のための生活指導

「痛みはこの世でもっとも凶暴な教師であり生きている限り逃げることができない」
  意識しようと無意識であろうと我々は痛みに逆らうことは絶対に不可能である。もちろん、小さな痛みには逆らうことができるが逆らうとつけが倍になって返ってくる。そして逆らえば逆らうほど痛みの強さは増大し、いずれ痛みにしたがわざるを得なくなる。 意志が強く立派な志を持つ人ほど小さな痛みに耐えようとするため、痛みの力はどんどん強大となり、容赦なく歩行困難になるほどまで痛みが襲いかかってくる。
生き物は自然界の毒物のほとんどに耐性を持つように仕組まれているが、痛みにだけは耐性を持つことができない。なぜならば痛みは細胞たちが作り出す電気信号であり、その電気信号を切っても切っても細胞たちは側副路を作って強大な痛み信号を脳に送ろうとするからである。痛みに逆らうことはこの世のなかでもっとも愚かな行為であるが、立派な人ほどその愚かな行為に挑戦し、完膚無きまでに敗退する。
敗退していても負けを認めない愚か者は、それでも痛みに逆らい、やがて体を動かすこともできなくなる。そして、もっとも大切な家族を介護地獄へとひきずりこみ、家族の人生をずたずたに崩壊させる。
高齢はこの暴力教師である痛みをいつでもどこにでも連れてやってくる。そこに理由などない。高齢こそが理由であるからだ。にもかかわらず高齢者は痛みの理由を探すために自分の全人生と全財産をかけて医者をかけずりまわる。理由を探して取り除けば、痛みという暴力教師から逃れられると思っているからだ。
痛みとの決別は高齢者の願いではなく、夢と化す。人は夢の実現には全財産をかけるので、お金儲けの亡者たちが彼らに群がり、健康を餌に高齢者の財産をねこそぎ奪っていく。本来、娘や息子に与えるべき高齢者の財産は、「痛みとの決別」をうたってお金儲けをしようとするやからたちに奪われていく。己の財産を奪われていくだけならまだよいが、やからたちの誤った情報をうのみにしたために体が壊れてしまい、大切な娘、息子たちに介護地獄を味あわせ、彼らの貴重な時間や財産まで奪っていく。
私は人の痛みを感じる。高齢者の痛みだけではなく、彼らを介護する家族たちの痛みまで感じてしまう。だから私はこの歪んだ高齢化社会が憎い。何とかしなければ…
私はおそらく誰よりも痛みを取り除く方法を我欲を捨てて熱心に研究してきた。その上でつきあたった真実がある。それは人間が痛みと欲という二人の暴力教師によって支配されて生きているということ。彼らとは命ある限り決別できない。そして決別は死を意味するということ。彼らに逆らうことも逃げることもなんぴとたりともできない。よって彼らから逃げる方法を考えても徒労に終わる。彼らとうまくつきあう方法を考えることが最良の策であるという真実にたどりつく。痛みと欲の二人の暴力教師とうまくつきあう生活指導が真の痛み治療に必要であるという真実にたどりつく。
  • 皆は知っているだろうか? いや知らないかもしれない。真実は常に人を傷つけるものだということを。この意味がわかるのならば逆の意味も理解できる。
  • 真実は多くの人を不快にさせる。不快でないのなら真実ではない。人々が簡単に受け入れられないのが真実であるから、たやすく受け入れられるものには真実がほとんどない。
  • 人々を不快にさせ、たやすく受け入れられないものが真実であるから、真実は商業にならない。真実で営業もできない。そして真実は流行することもない。
  • この逆も真なり。
  • 「はやるもの、受け入れられるもの、お金儲けになるものに真実は存在しない」。
  • もう一度いう。
  • 「はやるもの、受け入れられるもの、お金儲けになるものに真実は存在しない」
  • もう一度あなたに確認する
  • 「はやるもの、受け入れられるもの、お金儲けになるものに真実は存在しない」ということを受け入れられるか?
  • 真実の回答をいう
  • 「はやるもの、受け入れられるもの、お金儲けになるものに真実は存在しない」
  • ということをもしもあなたが受け入れられるなら
  • 「はやるもの、受け入れられるもの、お金儲けになるものに真実は存在しない」
  • ということは真実ではない。なぜなら真実は常にたやすく受け入れられないものであるからだ。
  よって真実を語るものは世に受け入れられることはない。その者の考え方が広まることもない。つまり現在、広く人々にはやっている教えには必ず嘘が含まれる。キリスト教であれイスラム教であれ、嘘が入っているから人々に広まる。宗教の教えが全て嘘だと言っているのではない。すべて真実であれば広まることはない。よって人々がすがりたくなるような飴と鞭の中の「飴的な嘘」が宗教の教えの中に必ず散在しているのである。
さて、長いまえおきになってしまったが、私は常に真実を見つけながら医師業務に取り組んだ。自分の技術を磨くためである。多くの医師たちは真実を見ることができないので、それを受け入れることで技術が格段に上昇する。ただ、たまに傷は、痛みに苦しんでいる人を見るとどうしても真実を述べてしまうことである。よって患者に激怒されることもしばしばあった。それでも私は真実を診ることが医師の使命であると考え自分の意志を貫いて業務にあたってきた。元気でパワフルであった。患者に嫌われることを美徳と感じていた。
生活指導とは「患者の自尊心を傷つける作業」であると痛感する。患者が信じている嘘や希望をはぎとり、真実を見せてやるという残忍な行為でもある。その残忍な行為をここで解説している。本気で他人の人生を救ってあげるためには、嫌われ者の指導者にならなければならないこともある。そこに真実がある。私はブロック注射で痛みを取り除くというアメを患者に与えると同時に、生活指導というムチを用意する。

痛みとは

痛みは肉体に対し主が破壊行為をしていることに対して肉体が主に行う処罰である。主とは脳であり自己であり意識である。軽い処罰のうちに破壊行為をやめなければ、肉体は重い処罰を用意する。痛みを感じた時は即時、その破壊行為をやめなければならない。つまり生活指導の大原則として「痛いことをやってはいけない」ということを厳守しなければならない。
痛みを伴う行為はそこらじゅうに存在する。顔を洗う行為、お尻を拭う行為、寝床から起き上がる行為、歩く行為、仰向けに寝る行為、ソファーに座る行為…これらの一つ一つの行為において痛みが来ないように行動を起こすか、もし痛みが来るのなら即座にその行為を中止しなければならない。あなたの人生のすべてをかけて、痛み行為を中止、または痛みの来ない別の方法を行ってほしい。歩くと痛みが出る時は借金をしてでもタクシーを使う。痛みで仕事ができない時はクビになっても休暇届を出す。葬式の最中に痛みが出るなら、参列を中止してでも帰宅する。人生のすべてをかけて痛み行為を中止することは簡単ではない。しかし、これができるのは一握りしかいない。できないから痛みという体罰を肉体から受ける。

痛み以外を信じてはいけない

マスコミたちは「痛みを解消する運動」「痛みを防ぐ体操」など様々な嘘を用意している。どれほど権威のある教授が考案した体操であっても、あなたがその体操をして少しでも痛みを感じるのであれば、その体操を信じてはいけない。痛みは常に正しい。そして痛みは常に絶対である。痛ければあなたにとって肉体破壊行為になっている。
痛くない体操であれば続けてもよい。痛み以外、どんな権威者の指導する運動療法も信じてはいけない。それはスポーツトレーナー、理学療法士、医師の指導をも含んでいる。痛み以外のだれも信じてはいけない。
人のからだは100人いれば100通りの異なった肉体があり、老化も変性も100通りの変化がある。体操や運動も100通りのやり方があり、それを一様に扱う体操や運動療法に正解はない。正解は自分自身が研究し自分自身がやり方を導き出さなければならない。万人に適応する運動などない。
信じるべきは痛みであり、痛みがないように全ての運動を自分なりにアレンジしなければならない。それができない者には運動療法は適さない。痛みを無視して運動すれば、運動を行う前よりも強い痛みがあなたを襲う。そして周囲に多大な迷惑をかけるようになる。
ただし、痛みというデメリットよりも運動による血行回復によるメリットが上回る場合もある。その場合のみ痛みをこらえての運動が許される。が、これを理解しその境界線を認識することは難しい。

運動が血流回復に重要

運動により炎症→痛みとなるデメリットよりも、運動による血流回復、重力の分散→炎症の改善となるメリットの方が大きいときに限り運動療法が許される。世界で行われている理学療法の多くはこの法則を無視し、一律に同じメニューを症状別に課そうとする。患者の1割~数割は理学療法により悪化していると感じる。残念ながらこの真実は医療関係者にとって痛すぎる事実なので見て見ぬふりをするしかないだろう。または盲目的に「よくなっている、よくなるはずだ」と思い込むに至る。
運動は決して悪いことではない。動かすことで重力が分散するからである。動かさないでいると重力が1か所に集中し、その場所は血行不良が起こるため組織損傷が必須。よって動かすことは組織損傷させないために絶対に不可欠なことである。寝たきりになるといっきにあちこちに不具合が起こるのは重力が1箇所にかかり続けるせいである。よって痛みが来ない程度に動かすことが人間にとって極めて重要なことである。また、筋肉が動くことで血管が動き、静脈弁があることで静脈血が心臓に戻りやすくなる。これを筋ポンプ作用というが、筋ポンプ作用も地味に血流改善に役立っている。

等尺運動が決め手

関節を動かさず、筋肉に力を入れる運動を等尺運動という。動かさないとはいうものの多少は動く。しかし大きな動きにはならないので運動により炎症を起こす可能性が低い。筋ポンプ作用で血流も改善するので痛みの強い人には理想的な運動と言える。
しかし、等尺運動は見た目に地味で退屈、そして運動した感がない。よってこれを継続することはストレスになる。また、運動開発研究者にとっても地味すぎて発表仕様に耐え得ない。だから等尺運動がフィットネスクラブで絶賛されることも理学療法士に多用されることもない運命にある。本当によいものは地味すぎて世に出ない。

歩くことが痛みを悪化させる

関節の変形は歩いた距離に応じて進行する。関節は自動車のタイヤと同じで消耗品である(多少の再生力はあると思われる)。歩いただけ必ず消耗する。この真実を決して忘れてはいけない。そしてバランスの悪い歩き方は1か所を集中的に摩耗させるため変形の進行が早い。
関節の変形のために痛みが強く出ている者は可能な限り歩いてはいけない。これは運動をしてはいけないと言っているわけではない。歩くという運動以外の運動をしなさいという意味である。椅子に座りながらの運動、ベッドに横になりながらの運動、棒につかまりながらの運動などなど、関節に重力や振動をかけずにできる運動を工夫しなければならない。

耐用年数は生まれながらに決まっている

もっとも屈辱的であり、しかし受け入れなければならない事実として生まれながらの耐用年数がある。生まれながらの骨格の違いにより、耐用年数には大きな個人差がある。ある者は1万キロ歩いた時点で膝や股関節が破壊され、ある者は100万キロ歩いても傷一つつかない。つまり、90歳、100歳を超えてもすたすた歩けるのは生まれつきの骨格が現代社会人の生活に極めて適応していたというだけの話で、努力や医療を超えている。
破壊されやすい骨格を親から受け継いだ者は短い耐用年数が来た時点で壊れる。10代でも壊れる。努力や運動、生活様式を少し変えるくらいでは耐用年数を延長させることは不可能に近い。長生きしてでも健康で歩けるようにしたいなら、耐用年数が少ない骨格を持って生まれた者は、生まれた瞬間から耐用年数を意識した生活を送らなければならない。そこで私はどんな骨格の持ち主がどのくらいの期間でどのように壊れていくのかを研究している途上である。 体力を消耗するスポーツを避け、日頃から姿勢や歩き方に気をつけ、日常生活も不注意で痛みが出ないように工夫する。それらを生まれた時から行えば90歳を超えてからも無事に歩ける状態でいられる。超高齢化社会だからこそ私は自分のこの研究を早く完成させなければと思っている。
耐用年数が過ぎると歩けなくなるのは当然のこと。そこまで放置した自分を悔み、杖や車いす、装具などを、そして寝たきりを受け入れる以外にない。医者を逆恨みしたって治りはしない。それを防ぐ最後の砦が私の治療である。よって私の治療により運動機能を復活させたいのであれば、私の生活指導を受け入れていただかなくてはならない。私の生活指導は「己と向き合うこと」以外にない。己以外を信じてはいけない。痛みが来ないように生活を送る。それだけである。しかしそのためには多くの犠牲を払っていただく必要がある。金銭的にも精神的にも。

寝ている間に人の体は悪化する

朝起床時に痛みが強いのは寝ている体勢が肉体を破壊しているからである。この事実を受け入れられる者がどれくらいいるだろう。私の生活指導は寝ている時の体勢を重要視する。ほとんどの患者が寝ている時に肉体を悪化させていることに気づかない。上向きに寝る、横向きに寝る、しかしどのように寝ても変形した骨格では脊椎にかかる重力が、勝手に骨格を破壊していく。上向きでは曲がった背骨が引き伸ばされ、横向きでは必ず側弯となる。よって長生きしたいなら寝具の工夫が絶対に必要になる。さらに寝返りが重要である。同じ姿勢を長時間していると、布団にあたっている部分に静脈血栓ができ、これが各種梗塞の原因にもなる。
しかしながら、何度も何度もいろんなクッションやまくら、バスタオルなどを用いて、試行錯誤して寝具を工夫する患者は皆無に等しい。というよりも工夫すること自体至難の業である。なぜなら、その日の骨格のコンディションによって痛みが最小となるクッションの大きさ、形、位置が異なるからだ。しかも、一度眠ってしまうと痛みがあったとしても気付かない。なおかつ、眠い頭で工夫をすることは非常に難しい。つまり寝具の工夫は100人いれば100通り、全員異なるため一律に指導することも不可能。よって無難な線として西川のムアツふとんなどを使うしかないと説明することになる。
ムアツは突起物で体を支える構造のため、背骨がある程度変形していても、一定の圧力で背骨全体を支えてくれる。しかしムアツマットは無難ではあるが万人にフィットすることはない。値段も高い。やはり各個人がクッションなどで微調整しなければならない。さらにその微調整は寝がえりをうつたびに変えることも必要になる。
患者にしてみれば「無理です。できません。」と言って逃げることは可能だが、そうやって逃がすわけにはいかない。どんなに優れた治療をしても、寝ている時に悪化させられたのでは治すことなどできないからだ。本来、寝具は背骨の変形に応じて患者全員に一人一人異なるアドバイスが必要になる。安易なマニュアルなど存在しない。もちろん、骨格ごとにどのような寝具が必要かのある程度のガイドラインは作ろうと思っているが、所詮患者の協力が不可欠である。そしてこのような内容を外来で説明して理解してもらうことも不可能に近い。だがやらねばならない。

経年は息をしているだけで体を破壊する

これまで私が生活指導をしてきた患者で「はい、わかりました」と応えた患者はゼロである。患者たちはほとんどが反論してきた。反論してきた割合は100%である。肉体は、何もしなくても、息をしているだけで破壊されていくのだが、それを素直に認めた患者はいなかった。「痛みがこないように生活様式を少しずつ縮小していかなければ、変形の進行を止められません」と説明するのだが、全員必ず「私は特に何もしていません」「からだに悪いことをやった覚えもありません」「重労働もしていません。規則正しく、そして細心の注意を払って生活しています」「体に無理なことは一切やっていません」と反論してきた。
彼らは経年が容赦ない破壊者であることを少しも認めようとはしないのである。昨日までは体にとって無理ではなかった「洗顔するという行為」が今日からは「洗顔するだけで背骨を破壊する行為になっている」ことを認めようとはしない。また、これまで30分間、椅子にすわってテレビを見ていたが、今日からは5分間椅子に腰かけることで背骨を破壊してしまうということも理解できない。
破壊するのは行為そのものではなく、行為の継続時間が非常に大きな原因になっている。彼らは口をそろえて「無理なことは何もしていない」と反論するのだが、そもそも「経年が限界を日々縮小させていく」という真実を全く受け入れようとはしない。昨日はできていたことが、今日は無理なことになっているということを受け入れない。そしてあがいて体を自らの手で破壊していくのである。真実は屈辱である。

元気な高齢者は手本にならない

テレビや雑誌では元気な高齢者が若者たちと同じようにすたすた歩き、運動すればだれでもこのように歩けるという嘘を吹聴している。私は幼少期からの骨格を研究し、様々な骨格の奇形を発見し、奇形を持った者たちが将来どう変形していくのかを真摯に研究しているが、高齢でもすたすた歩けるのは、うまれつき優れた骨格を持っているからだという結論にたどりつく。
骨格にちょっとした奇形を持つ者は毎日8時間労働を続けているだけで骨格が破壊されていく。奇形のない者は毎日16時間、重労働についても骨格がほとんど壊れない。高齢でも元気な人、は決して手本になんかなるはずがない。歩けば歩くほど元気でいられるのは、それ相応の骨格を親から受け継いでいるからにすぎない。 夢のない話だが、「歩けば寝たきりにならない」は噓である。

団体行動を行ってはいけない

患者が一挙に体を破壊してやってくるのが盆と正月、温泉旅行であるという真実を受け入れられだろうか?盆と正月とお彼岸は高齢者の周囲に親戚が集まり、長時間の座位、長時間の歩行、長時間の移動などを強いられる。本人は痛みのある足をひきずりながら我慢して皆に合わせようとするのだが、こうした団体行事で骨格は破壊されやすい。よって盆と正月・お彼岸以降、患者は急に歩けなくなったり寝たきりになったりする。温泉旅行も夫婦で行くと、妻か夫に歩調を合わせる必要があるため、無理をして骨格が破壊される。ツアーとなると他人に迷惑をかけられないものだからさらに悪い。
お金を安くあげようとして、バスツアーに行くのだが、バスのシートに2時間座っていることで脊柱管狭窄症が激しく悪化する。他人に歩調を合わせることで骨格はたやすく壊れることを、多くの高齢者が「後戻りができないほど壊してから認識するようになる」ことはまことに残念である。転ばぬ先に杖をつけない。

自制以外に治療の方法がない

己の高齢を認め、己の限界が日々縮小することを認め、周囲に合わせると想像以上に骨格が壊れていくことを認めていくことが「寝たきり」を防ぐ第一歩となる。それらは全て自制である。限界は常に縮小するわけだから、日めくりカレンダーをめくるたびに、行動範囲を自ら縮小させていく強い精神力が必要になる。ここで強い精神力と述べたのは、自制こそが人間にとってもっとも意志力の必要な行為だからだ。
私はこれまで「保存的治療の最後の砦」となるべく、患者にありとあらゆる治療を積極的に施してきた。だが、その努力も高齢には勝てないのである。ただし、患者が自制をし始めれば、私の最終治療が効果を発揮し始める。私がどれほど積極的に大胆な治療を行っても、自制してくれない患者には無効となる。そして彼らは私の手から離れ、痛みに囚われの身となり生き地獄をさまようようになる。 つまり、私の治療法の最後の最後の砦が、「患者に自制させる」こととなる。

生活指導ほど厳しい治療はない

自制という言葉で簡単に言っても、それは人間がもっとも苦手とする行為であり、普通はできない。だから私はほとんど患者に生活指導をしない。骨格の生き死にの境界線に立っている患者にしか生活指導をしたことがない。しても無駄であり、すると信頼関係が崩れるからである。あらゆる保存的治療が効果を示さず、日々悪化していく患者にのみ、最終的に生活指導を行っている。私が生活指導をする患者は年間でも数名しかいない。今は年間に1名もいない。その理由は保存的療法の技術が年々向上しているので、生活指導するところまでに行かないからである。
その数名には「私から逃げるか、私の指導を受け入れるか」の2者択一を選ばせる。そして私の指導を受け入れなかった患者は寝たきりになり、受け入れた患者は現在も自分の足で歩いている。そのくらい切羽詰まった患者にしか指導を行っていない。私の指導を守らなかった患者は私の予言した通りに寝たきりになった。それは見事なほどの的中率だった。しかし、寝たきり後も痛みを取り除いてほしいという理由で私の元を訪れる。送り迎えをする家族がどれほどたいへんか。
痛みに囚われの身となり、その痛み地獄から数日でも逃れたいために私のもとを訪れる。もちろんそうした患者を放っておけないから、全身の関節に注射をし、硬膜外ブロックもしてさしあげる。だが、改善することは難しい。高齢という破壊者が絶大だからである。患者はすでに私の手を放れている。限界をとっくに超えているのである。最後の砦を破って、逃げて出て行ってしまったのだから仕方がない。ただ、私は砦を年々大きく成長させて対抗している。

運動は適度に

壊れた肉体を修復してくれるのは常に血液である。血液の循環が途絶えると修復が不可能になり一方通行で破壊されていく。保存的治療の最後の砦として血液の循環を良くすることは不可欠である。そして血液を流すためには筋肉を動かす必要がある。それが運動である。運動がなぜ必要かというと一般的に考えられているような「筋肉を鍛える」ためではない。筋肉のポンプ作用で血液の循環量を高めるためである。
だが一方で運動が血液の流れをせき止める。その原因は重力である。重力がかかると血管がおしつぶされて流れが止まる。よって高齢者は重力をかけずに運動するという方法が必要になる。散歩するというのは一般的に素晴らしいこととされているが、歩けば、立てば、必ず関節に重力がかかる。だから変形の進んだ関節で歩けば、重力が関節を破壊し、重力が血管を押しつぶし悪化させることがしばしばある。よって高齢になればなるほど、散歩で運動をするのではなく、寝床で、椅子で、体操をする方が望ましい。それは散歩するよりもおもしろくないことであり、単調な繰り返し運動であるから退屈でもある。その退屈でおもしろくないことを進んでやっていただく必要がある。

水中運動は悪い場合がある

プール内を歩けば重力はかからないが、水圧がかかる。水圧は血管径を縮め、血流量を低下させるので私は高齢者にはすすめない。

そこまで制限されて生きていても仕方がない

生活指導は1に自制、2に自制、3も4も自制の嵐である。それが苦痛であることは百も承知している。そこまで自制して、生きていても仕方がないと言う患者がいたら、私は彼らを叱責しなければならない。生きていても仕方がないのではなく、痛みの牢獄に捕らわれながら生かされ続けるのであり、それは生き地獄なのだ。その生き地獄から生還できる最後のチャンスが生活指導という位置づけになる。「私から逃げられても痛みからは逃げられない」と彼らを叱責する。
真実は非常に厳しく、誰も避けたがるもの。その真実に目を向けた者にだけに祝福が訪れる。だが真実を見つめることは最大の屈辱である。あなたはその屈辱を受け入れられるだろうか。受け入れなければ後がない。そういう崖っぷちに立つ患者にのみ生活指導を行うのは真実がこうも厳しいからに他ならない。

痛み治療のための生活指導」への4件のフィードバック

  1. どこに書いていいのかわからなったのでこちらに書きます。妻が乳がんの遠隔肝転移の治療中です。現在の抗ガン剤の副作用が手足の末梢の痺れや痛みです。リリカを服用していますが夜になると痛いらしく泣いております。抗ガン剤の効果は出ている状態なので本人も続けたがっていますが、そばで見ていて忍びないです。このような副作用での末梢神経疼痛でも神経ブロック治療は可能ですか?ご教授よろしくお願いします。

    • 難しいことはいろりろとありますが、結論から言えばブロックは有効です。ただし「決めつけ」があると、それをしてもらえないことが多々あります。決めつけとは「抗がん剤で痛みが来ている」という決めつけです。あなたがそう決めつけているように、おそらく医者もそう決めつけます。決めつけがあれば「ブロックは無駄」と決めつけるために、ブロックを行ってもらえません。例えば、全身痛とはいうもの、本当に全身が痛くなることはなく、全身であると本人が思い込むという誤解が生じます。全身痛にはブロックは無駄という判断をsれてしまいがちですが、本当は、「一部、腰から下肢にかけて最も痛い」というのが真実である場合があり、その場合は腰へのブロックで対処できるのですが、本人が全身痛だ!と決めつけている時点で治療は拒否されてしまいます。

       決めつけは患者側にだけに存在するものではなく、ほとんどの場合医者が決めつけるものです。抗がん剤がもちろん、痛みの引き金になっているとは思いますが、「耐え難い痛み」の根本原因は、どこかに存在しする神経根炎の場合があります。この場合は神経根へのブロックが適応ですが、医者やあなたが「抗がん剤で痛みが出ている」と決めつけたせいで、神経根ブロックは選択肢からはずされてしまいます。

       難しいことをいいましたが、決めつけのおかげで医療は迷走し治療はストップします。だから、ブロックは有効であっても、それを行ってもらえるかどうかは別次元の話しなのです。

      • お忙しいところご返信ありがとうございます。妻の抗ガン剤の種類も、すでに5種目になりその都度、程度の差こそあれガイドブック通りの副作用が出て来ました。そんな経過から現在投薬しているパクリタキセルの主な副作用と妻の症状が合致しているのでこの薬剤の副作用と判断しているものと思います。私としては目の前の妻の辛さが少しでも和らぐならば出来る治療はしたいと思います。ですので治療を受ける前提において私が取るべき手順をご教授下さい。宜しくお願い致します。

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